『思い出し薬』
みきを
 敏子は思い出そうとした。
 玄関脇の靴箱の扉を何度も開け閉めし、隅々まで確認しても、どうしてもみつからない。夏の暑さで汗が噴き出してくる。探し物を頼んだ張本人の夫の茂は気楽にテレビを見ている。敏子はだんだん腹が立ってきた。
 「そうだ、一度あれを試してみよう」
 先日スーパーの帰り道、小さな薬局で敏子はそれを見つけ、試しに買っていたのだった。
 箱を開けると、緑色の液体が入った小瓶が出てきた。
《思い出し薬》
――効能 どうしても思い出せなくて困った時に服用すると、脳の海馬を活性化させ、過去の記憶を甦らせることができます――
 敏子は半信半疑ながらも、「赤い登山靴」と唱え、その液体を一気に飲み干した。

 「明日から、仲間と山へ行くことになった。あの赤い登山靴出しておいてくれ」
 今朝、夫が唐突にそう言った。
 「まぁ。あなた、定年になってからテレビのお守ばかりで、山登りなんて大丈夫ですか」。私が驚いたように答えている。

 まるで、映像の早戻しを見ているようだった。どんどん記憶が巻き戻されていく。

 季節が戻り、分厚いセーターを着た私が、夫の赤い登山靴を処分しようか悩みながら、結局、新聞紙でくるんで、庭の物置へしまっている姿が見えた。

 「あ、そうだ」。敏子は我に返った。急いで庭へ行き、物置を探してみると、新聞紙でくるまれた赤い登山靴が出てきた。
 「あなた、あったわ」
 慌ててリビングへ戻る途中、敏子は、また気を失った。さらに記憶がさかのぼっていく。

 私はどんどん若くなっていった。
 「あなたっ、山登りに行ったんじゃなかったの。どういうこと? この登山靴、ぜんぜん汚れてないじゃない」
 私が青筋立てて、夫を問い詰めている。

 そうだ。二十年前、夫は山に行くと嘘をついて、実は浮気をしていた……。
 我に返った敏子は、無性に腹が立ってきた。夫は、気持ちよさそうにうたた寝をしている。
 敏子は重い登山靴を握りしめ、そのぶ厚い靴底を、夫めがけて振りおろしたい衝動に駆られた。――とその時、再び気を失った。

 私は山にいた。その容姿は若さではつらつとしている。大きな岩を登ろうとした瞬間、足を滑らせて落ちそうになった。
 「危ないっ」。赤い登山靴をはいた青年が背後から、咄嗟に敏子を受け止めてくれた。
 「あ、ありがとうございます」
 私はびっくりして恥ずかしげに振り返り、思わず青年の顔をのぞき込んだ。
 まだ若さの残る夫、茂が微笑んでいる。

 気がつくと、敏子は赤い登山靴を抱きかかえたまま、ソファの横で座り込んでいた。
 「おっ、見つかったか」
 夫が起き上がって、敏子に手を差し出した。
 「あの時、私はなぜ山にいたのかしら……」
 敏子は再び気を失った。

 「すまない、敏子。僕は部長の娘との婚約を決めたんだ。君とはもう……」
 「待って。行かないで、義男さん!」
 私は追いすがろうと、手を伸ばした。

 「おいっ敏子、どうした?」
 その声で、敏子は気がついた。
 「あなた……」。敏子の腕をしっかり握っているのは義男ではなく、夫の茂だった。
 「あの時の山登りは、失恋旅行だった――そういえば、義男さんの登山靴の色も……」
 敏子は夫に内緒だった過去の秘め事を思い出し、ほんの少しうろたえた。

 「この薬、本当によく効いたわ」
 敏子は、そう思いながら箱の裏側を見た。
 《ご注意/思い出したい期間によって、必ず薄めてお飲み下さい。でなければ、余計なことまで思い出す危険性がございます》
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