『嘘』
ふう
 誰にでも虫が好かないというか、嫌な人というのがいる。こずえにとっては、いまこちらへ向かってくる、同年輩の婆さんがその人だ。本物らしいファーをコートの上にかけている。
 脇へそれる道はないし、踵をかえして逃げだすには近すぎた。電柱の横でとっさに下を向き、何かを探すふりをしてしまった。
 「どうかなさいましたの」
 彼女の靴の先が見えたと思ったら、低音の上品な声がふりかかってきた。これが、こずえには苦手なのだ。
 「なにか、お探しで……」
 「指輪を落としましたのでね」
 こずえはスカーフを首に巻きつけるとき、プラスチックの指輪のような輪っかに通して使う。しっかり留まって着崩れしない。その輪っかを薬指にはめて家をでてしまった。指さきで、もてあそびながら歩いていたので、それがそのまま言葉となって出たのだ。
 あっと思ったが、遅かった。七十歳をすぎた頃から、フィルターを通さずに言葉が口から滑りでてしまうようになっている。
 「指輪ですって、まぁ、そんな大切なものを」
 彼女は片足を浮かせて身をのけぞらせた。
 「転びますよ。危ない、危ない」
 「指輪でございましょ。高価なものなのでしょうね」
 ええ、まあ、と言いながら、こずえはコートのポケットに左手を入れて、薬指の輪っかを親指でこすり落とそうとした。本当は何のおまけだったのかさえ、さっぱり思い出せない。むかしから、引き出しの隅にころがっていただけのものだ。
 高価なものでしょうといわれて、負けずに格好をつけてしまい、いまさら素直に白状もできない。もう、とっとと去って欲しいのやけど、と思う。
 「わたくしも、ごいっしょに探してさし上げましょうね」
 しつこいなあ、早よ、あっちへ行って、と心がわあわあ言っているのに、ありがたくて仕方がない顔つきをこしらえてしまった。
 結構な婆さんのくせに、体を前かがみにしてバランスも崩さず地面に目を這わせている。
 こずえは、ポケットの中で落ちてきた輪っかをにぎりしめた。手のひらに汗をかいている。だんだん彼女にひどいことをしている気がしてきた。謝って白状しようかと思っても、今さら「プラスチックの輪っかでした。じつはポケットに入れてましたあ」では、あまりにもサマにならない。
 あぁ、どうしよう。いつまで親切に探してくれるつもりだろう……。
 もとは、この人が嫌で逃げ出そうとしたことから始まった。なんで嫌なのかといえば、何事にもかなわない気がするのだ。
 こずえは自分の方が、よっぽど意地悪婆さんのように思えてきた。
 「あのう、見つかったら、差し上げますわ」
 こずえの口がまた勝手にうごいて、筋の通らない言葉が滑りでる。一瞬、間があって、彼女は顔を真っ赤に上気させた。
 「そんなつもりで、わたくし……」
 体をがくがくと震わせ、腕を突き出してくる。こずえが手で振り払って身をかわすと、はずみで、彼女がよろけた。
 「危ない」。こずえは必死で抱きとめたが、腰をひねってしまった。イテテとさすっているうちに、彼女は老体を立てなおし、はあはあと喘ぎながら言った。
 「はじめっから、指輪なんか、落としていないくせに」
 「えっ、じゃあ、なぜ親切に探してくれたの」
 むきになって聞き返すこずえに向かって、彼女は顔いっぱいに笑みを浮かべ、やさしげな声で答えた。
 「あなたのねぇえ、嘘を、見つけてさし上げようと思いましたのよ」
 あぁ、やっぱりこの人にはかなわない。
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