『アジサイの香り』
果伊江
 軽トラを停めると、庸介は傘も差さずに外へ出た。荷台に積んだ水滴の付いたアジサイを抱きかかえる。両手一杯のアジサイは、庸介の作業服を濡らした。  
 このまま中へ入って嫌がられないだろうか。庸介は特別擁護老人ホームの前で悩んだが、結局は花を見せたい気持ちが勝った。
 廊下を曲がったとき、看護師に手を引かれた老女とぶつかりそうになり、はっとした。
「すみません」
 庸介は二人が進めるように花をよけた。開け放たれた窓から、熱と湿気を含んだ風が舞い込み、ふわりとアジサイが香った。それは花というより葉に近い香りだった。
「まあ、きれい」
 老女はアジサイに見とれると足を止め、少女のように胸の前で両手を合わせた。細身の黒いパンツに黄色いストライプのシャツ。小柄だけど背筋を伸ばして歩く姿は、この施設にはふさわしくない若々しさがある。
 庸介は見つめすぎないように気をつけて、老女の次の言葉を待った。ここの患者は、知らない人に話しかけられるとパニックに陥る場合があると、以前職員に注意を受け、自分からは話しかけないようにしていた。
「あのう、そのアジサイ、一本いただけないかしら?」
 老女が庸介に言った。祭りのぼんぼりのようなピンク色のアジサイは、仄かに周りを明るくしている。
「アジサイって、思い出があるの。息子が初めてくれたお花だから」
 庸介は子供の頃、いつも遅くまで外で遊んでいたのを思い出した。
「親孝行な息子なの。夫を亡くして辛かったとき、公園のアジサイをプレゼントしてくれたの。本当はいけないことなんだけど、幼い子供だったから……。すごく嬉しかったわ」
「息子さんですか?」
 看護師の問いに、老女は嬉しそうに頷いた。
「ええ、とても優しいの。それに賢いのよ。東京の大学を出て商社に勤めているの。今はニューヨークで、家族と住んでるのよ」
 庸介は、アジサイを一本差し出した。そのとき老女は、庸介の濡れて汚れた作業服をちらりと見て、眉をひそめたように見えた。
「あのう、波恵さん。お子さんはお一人?」
 看護師が、躊躇いがちに老女の名を呼んだ。
「そうよ。以前にも、そう言ったでしょう」
 波恵の表情に迷いがない。看護師が気の毒そうにこちらを見た。
「そうだったかしら? 確か息子さんがお二人いるって……」
 看護師に言われて、波恵は不安そうに両手で頭を抱え込んだ。
「どうしよう。私また、色んなことを忘れちゃったのかしら……」
 人は記憶を無くすとき、どうでもいいことから忘れていくのだろうか。
 庸介も覚えている。幼稚園の頃、庸介は公園でアジサイを摘んだ。そして、渡したのは兄さんだった。母さんは喜んで、花の香りを胸に一杯吸い込み、兄さんに頬ずりをした。庸介は雨の中、植え込みにしゃがんで服を汚したものだから、叱られた。でもそのときの母さんはとてもきれいだった。それからアジサイは母さんの大好きな花になった。
 僕は母さんが自慢する兄さんみたいになれない。三十過ぎて定職がない上に、いまだに独身。でも母さんを大切に思っている。
「よかったら、これ全部差し上げます」
 庸介が看護師に花束を渡すと、波恵は花に顔をつけて、大きく息を吸い込んだ。波恵の白い頬がピンク色に染まる。
 昨日ニューヨークの兄さんに電話したけど、忙しくて帰国できないらしかった。
 礼を言って、花の香りをまといながら手を引かれて行ってしまう波恵の背中に、庸介は呟いた。
「母さん、僕を思い出して」
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