『影、高く買います』
あんな
 ある朝、新聞を読んでいると、私は広告にこんな見出しをみつけた。
「影、高く買います」
 なんだ、これは? 不思議な気持ちで文字を更に追う。
「影、高く買います。お気軽にご連絡下さい。『幸せの影』研究所  TEL ***」
 影……。考え始めたが、時計の音に思考が遮られる。
「もう、こんな時間だ。会社に遅刻してしまう」
 バサッと新聞を放り投げて、私は急いで家を出た。外に出ると朝日がまぶしい。歩きだした自分の足元を見ると、長い黒い影が付いてくる。この影のこと?
 困ったことに仕事中も、「影、高く買います」が私の頭を離れない。こんなに気になるのなら電話してみるか。ただの悪戯なら、名乗らずに切れば良いのだから。
 電話はすぐに通じた。
「『幸せの影』研究所です。はい、確かにこちらで影を高く買います。是非一度、お越しください。話だけでも聞いて頂いて、ご納得出来ないようでしたら、結構ですよ。すべてあなた次第なのです」
 誰が、こんな怪しい電話で行く人がいるのだろう? 私なら絶対に行かないが……。

 研究所は、家から意外と近くにあった。
 私が思っていたよりも、まともなビルである。見るだけ。そう思って前を歩いてみた。
「お待ちしておりました」
 中から白衣の女性がすっと現れた。
「なぜ、私だとわかったのですか?」
 ふふふ、と女性がほほ笑んだ。
「あなたが魅力的な影をお持ちだからですよ。この研究所では皆様の影を購入させて頂いております。何のために? 皆様、そう尋ねられますね。そうですね、研究の為と申しましょうか。痛みは何もありません。あなたの生活にも何ら影響はありません。よく考えてみてください。今まで影を意識したことがありますか? 影が無くても何の不便も感じないでしょう? その影を当方では、あなたの言い値で買い取ろうと申し上げているのです」
「言い値ですか。馬鹿馬鹿しい。例えば、例えばですよ……私が一億円と言えば、貴方は買い取るのですか?」
 ほほほほ。女性が笑った。
「結構ですよ。すぐにお支払い致します」 
 一億。このお金の使い道をついつい考えてしまう私がいる。影は何か、いままで役に立ったか? お金は役に立つぞ……どうする?

 こうして私は、自分の影がない人間になった。
 何か変わったことはないかって? いや、全然なんの不便もなく暮らしているよ。
 むしろ今までよりもずっと楽なんだ。ただ主(あるじ)の真似をして動くだけ。慣れるまで戸惑ったこともあったけど、今は何も考えずについていくだけだよ。

 こんにちは。「幸せの影」研究所です。人間の影は、有効に活用させて頂いております。……というより、人間よりもずっと、有意義に生きていますよ。人間はどうなったかですって? 私達は、人間から影を購入し、逆転させました。つまり、地上に立つ人間こそが、今は私達の影なのです。
 朝、他人の影をご覧になったことがありますか? 地面の影が、人間より先に動いていることに気がつきませんか? それは影が主体となって生き生きと行動し、人間は私達の従者となって何も考えず、そのまま足元の影の動きを追随しているだけなのですよ……。

「影、高く買います」
 次の日、新聞にまた、こんな見出しの広告が躍っていた……。
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