『骨まで愛してネ』
わっこ
「洋子さん、早く来て!」
 電話の向こうで、必死に叫ぶ声がした。
「保(たもつ)が帰るって言ってきかないのよ。お願いだから彼を止めて!」
 受話器を取ったとき、洋子は夕食の買い物に出かける用意をしていた。(また喧嘩か……)。うんざりしながらも、洋子は「すぐに行きますから」と返事して電話を切った。
 電話をしてきたのは隣のマンションに住む九十六歳の、りん婆さまだ。いま、「帰る、帰る」と駄々をこねているのは、保(たもつ)爺さま、八十二歳である。

 現在、りん婆さまは、介護付きの老人ホームに入って日々の生活をしている。しかし、週末の二日間だけは自分のマンションに帰ってくる。保爺さまはその土曜、日曜に必ずりん婆さまの家に泊まりに来て、ふたり仲睦まじく二日間を暮らすのである。
 ところが、りん婆さまは気が強い。時々、ふたりが喧嘩をしては、その度に洋子は仲裁役を押しつけられる。大方は些細なこと(保爺さまの焼き餅?)が原因なのだが……。

 洋子が、今の住宅地の一軒家に越して来てから、かれこれ三十年近く経つ。すでに隣のマンションで悠々自適に一人暮らしをしていた、りん婆さまとは、そこからの長い付き合いだ。振り返ってみると、もうそのときにはりん婆さまの部屋に、ちょくちょく〝甥〟と称する男性が出入りしていた。
 そしてある日、洋子は、りん婆さまから「実はネ……」と切り出された。
「彼は〝甥〟ではなく、『りん』という女に対する一人の男『保』なの」

 りんは長く英語の講師をし、夫と離婚後も子供二人を立派に成人させたという。保は地元で有名な資産家の御曹司(末っ子)だが、親の勧める結婚でひどく失敗し、極度の人嫌いになって全く外に出なくなったらしい。そんな保と、りんがどこで出会ったのか、そのあたりの経緯は洋子も聞いていないし、また、今さら聞けるものでもない。
 ただ、りんと出会った保の心に劇的な化学変化が起こり、それ以後〝りん一筋〟に自分の生涯のすべてを捧げ続けてきているのだ。そして、りんも十四歳年下の保を受け止め、世間の好奇な目を払い除けてふたりの愛の世界を守り続けてきた。
 しかし、りんの子供たちは世間体を気にしてか、彼らの仲を認めようとせず、批判的である。それを知っている保は、りんが何度〝結婚〟を迫っても、こればかりは……と頑なに聞き入れず、ずっと〝未入籍の通い〟を続けてきた。
 今、ふたりは週末しか会えないが、その間、二晩の寝床を共にする熱々ぶりは、洋子が傍で見ていても気恥ずかしいばかりである。
そして月曜日の朝、介護老人ホームの車がりんを迎えに来ると、ふたりは人前も憚らず抱き合い、泣きの涙で、しばしの別れを惜しむのである。
 りんは洋子に、いつも口癖のように言う。
「わたしは、本当に幸せ者よ。この年齢になって、身も心も深く愛してくれる男性がいるんだもの。わたしも彼を淋しがらせないように、一日でも長く生きようと思っているの。Love me to the bone よ!!」

 洋子は、りん婆さまの萎びた肉体のどこに、こんなにも瑞々しい愛の泉があるのだろう、と不思議に思う。そしていつも、「夫」の存在を水か空気のようにしか感じていない自分自身の夫婦生活を振り返ってみるのだった。

「さて、今日はどんな喧嘩をしでかしたの?」
 洋子は夕食の買い物を後回しにし、仲直りのキューピッドとなるべく、りん婆さまのマンションへ急いで駆けつけるのだった。
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