『春の雪』
風子
 千絵は濱田家のひとり娘だが、ひとり娘にありがちな、わがままも甘えもない。色白で、気丈だがしごく控え目で聡明な女性である。
 秋の良き日、濱田家に縁談を持ち込んだのは佐伯家の縁つづきの者で、「藤吾の嫁に、ぜひ千絵さんを」と言って帰った。
 千絵に異存はない。それどころか、いつかそのような日が来るという予感がしていた。濱田家も佐伯家も同じ勘定方で石高もいっしょである。城勤めのない日はどちらかの家で囲碁をたのしみ、互いに碁がたきであった。
 両家の父親はどちらも子煩悩で、互いの家に行くときはたいてい子供をつれて行ったので、千絵も藤吾も幼なじみなのだ。藤吾は千絵を妹のように可愛がった。本を読んで聞かせたり、ときには木剣で剣術のまねごとを教え、千絵を泣かせたりした。
「お千絵は大きくなれば、わしがもらってやる。武士の妻はいつ、なにがおこるか分からないから、多少の剣も使えるようにならなければいけない」
 そんなことを藤吾からなんども聞かされているので、今日の使者の話を聞いても驚かないどころか、胸の奥がきゅんとなった。藤吾が学問を学びに江戸へ発つまえに濱田家を訪れたが、送りに出た千絵は、ふいと藤吾に抱きすくめられ口を吸われた。あまりにも唐突だったので千絵は声も出せずにいた。
「わしはお千絵以外に嫁はもらわぬ」
 それだけ言って、一度も振り返らずに帰って行った。あれから三年である。
 その年の冬は雪がなん日も降り続き、なかなか春の気配が見えなかった。流行り病がまん延し、死者がどんどん増えていた。濱田家でも下男がまず風邪をこじらせ、飯炊きをする女中たちにうつった。いつも元気な千絵の調子が悪くなるのに時間はかからなかった。高熱が一週間ほど続き、医者にも見せたがいまの流行り病だという。やっと熱が下がったと喜んだが、千絵は目をやられてしまった。医者は時間がたてば視力が戻ることもあると慰めたが、いっこうに回復する兆しはない。
 三年も藤吾の帰りを待ち続けたのに、もう藤吾の顔を見ることが出来ないのだと分かった千絵は、いっそ毒でも含もうと思った。けれども、よもやのことを察して見張りがつけられ、その自由すら奪われてしまった。
 春に藤吾が江戸から帰り着いたとき、実家にも寄らないで真っ先に千絵に会いに来たが、藤吾は門前で帰されてしまった。事情を知った藤吾は、「わたしの気持ちは変わらないと千絵さんに言ってください」と濱田家に伝えたが、千絵の耳には単なるいたわりの言葉としか、とらえられなかった。
 気丈な千絵は、最後にはっきり自分の気持ちを藤吾に伝えようと思い、家の離れ座敷で二人だけで会えるように計らってもらった。
「藤吾さま、わたしは今年の流行り病で、目を患ってしまいました。あなたさまの妻として身の回りのことなど、なにも出来ません。どうぞわたしに遠慮などなさらず、これぞと思う人を娶ってください。お別れにお願いがあります。もう一度わたしを抱いてください。でも前のようなのでは嫌でございます。わたしの身を藤吾さまに触れて頂けるだけで、これから先、わたしは一人で生きて行けます」
 しずかな二人だけの刻に、床の間に活けてある水仙が清らかな香りを放っている。
「ああっ、わたしのなかを……雪が、雪が舞っています。ほら、きらきらと光りながら……」
 見えないはずの千絵の眼裏(まなうら)に春の雪が、しきりにきらめいているのであろう。色白の頬も耳たぶも肌も、いま夕陽を浴びたように、千絵の全身が染まっている。
「心配などしなくていいぞ。わしの嫁はお千絵しかおらぬのだから」
 藤吾は自分の生涯をかけて、千絵を守っていくのだと、改めて心に誓った。
 水仙がまた、ふわりと香ってきた。
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