『初刀の儀』
琴乃
 平安時代末期、京の都では、帝の御嫡男、若皇子様の元服の儀が、咲き誇る桜の下、華やかに執り行われていた。
 この日、皇子の身の回りの世話をするのは、すべて乳母である朝霧の仕事だった。
「皇子様、いよいよ最後の儀式"初刀の儀"でございますね」。朝霧は皇子を見上げた。「朝霧よ、初刀の相手の支度を手伝ってまいれ」(なんと心優しい皇子様に育たれたことでしょう)。朝霧は、乳母として誇らしい気持ちで満たされた。
 とはいえ、"初刀の儀"のお相手に選ばれた者は、皇子の剣を受けて生命を落とす運命にある。それと引き換えに、多大な報償金がその亡き者の家に与えられるのだ。
 宮殿の長い廊下を歩きながら、朝霧は、皇子と同い年になる我が子のことを思い出していた。十五年前、下級貴族の妻であった朝霧は、男の子を出産するやいなや、まるで献上品のように、皇子の乳母として宮殿に送り込まれた。朝霧には、我が子を抱くことも、乳を飲ませる時間も与えられなかったのだ。
 廊下の突き当たりにある、小さな部屋の前に着くと、朝霧は「支度のお手伝いに参りました」と、障子を開けた。三畳程の板の間に、一人の若者と身支度を手伝う小姓が静かに座っていた。
「お世話になります」。若者は恭しく頭を下げる。「そちの名は?」「中京信之介と申します」「はッ……」。朝霧は絶句した。
 〝中京信之介″。その名は、朝霧がこれまで片ときも忘れたことのなかった愛しい我が子の名前ではないか。
(でも、なぜ、どうして……夫はあの時「信之介は、中京家の跡取りとして立派に育てる」と約束したはずだ)。朝霧は、へなへなと座り込んだまま、震える声で尋ねた。
「そなたは、このお役目がどういうことかわかっておられるのか」
「もちろんです。父から中京家のために、立派にお役目を果たしてくるように言われました。中京の家は、腹違いの弟がおりますので心残りはございません。それに、極楽浄土には、私を産んですぐに亡くなった母上が待っておられると父から聞いております。早く会いとうございます」
(なんとむごいこと)。やっと我が子に会えたこのひと時が、朝霧にとって今生の別れの時になってしまうとは。
(無力な母を許してはもらえまい)
 名乗る勇気もなく、朝霧は肩を揺らして思わず涙を流した。
「ありがとうございます。私が"初刀の儀"のお相手に決まってから、泣いてくださったのはあなた様だけです。中京の家では、みんな『めでたい。めでたい』と毎日、祭りのような喜びようでございました」
 朝霧の体の奥から、怒りがこみ上げてきた。
(憎き中京家の者どもめ。私だけでなく、我が子までもお家の犠牲にしようというのか)
 その時、儀式の開始を告げる銅鑼の音が鳴り響き、部屋にいた小姓が慌てて出て行った。
 信之介は、意を決したようにすっと立ち上がり、朝霧の方を向くとゆっくり頭を下げた。
「さらばでございます……母上」
 朝霧は最後の言葉を聞き逃しはしなかった。

 宮廷から、帝に逆らった女官と若者の姿は忽然と煙のように消えてしまった。

 その年の夏も終わるころには、宮廷の中で出奔した二人のことを語るものは誰もいなくなった。中京家は、信之介の身代わりとして、もうひとりの若者を"初刀の儀"に差し出した後、お家断絶となった。
 初雪がちらつき始めた頃、人里離れた山奥には、ひっそりと暮らす母と子がいた。名前も身分も捨てた二人ではあったが、あの日、命がけで宮殿から逃げ出したことを後悔したことは、一度もなかった。

(この作品は、歴史的事実に則らない「フィクション」です)
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