『恐怖』
麻子
 私は、恐怖が足元からジリリと、背すじを伝って這い上がってくるのを感じた。
 もう師走が近いというのに残業が長引いて、心せくままに、やってきた空のタクシーを見つけると、強引に止めて乗ってしまった。バタンと扉が閉められた時、フッと何かが臭う。
 生臭い。
 生魚の臭いしか思い浮かばないが――こんな所に生の魚が泳いでいるわけはない。
 じゃ、何? そういえば、運転手が妙にオドオドしている。
(何かあるな……)。私は嫌な予感がする。
 後ろの席からはよく見えないが、運転席の横に、何やら黒い包みが置いてあるようだ。
 その包みに気を取られるのか、運転手は右手でハンドルを操りながら、左手で時々、それを押さえにかかる。(危ないじゃないの)
 いきなり、携帯電話が鳴り響いた。
 運転手は慌ててポケットから、それを取り出し「うん、うん」とうなずく。
「わかってる、って。いま、女の客を乗せたばかりだから……あとで」。声のトーンを落として、相手の返事を待たずに切ってしまった。
 車内に、沈黙が戻る。
 後ろから見ると、運転手の耳がなぜか変色して、つぶれている。
 もしかして、カタギではない……。
 得もいわれぬ恐怖が、足元からジリリと這い上がってきた。
(とにかく早く降りよう。このタクシーから逃れよう)。私は、そう決心するけれど、すでに行き先は告げてある。ここで降りると言うと、きっと運転手は訝るにちがいない。そして口封じのために脇道へ逸れて、何をされるか知れたものではない。
 夜の闇が妄想をかきたてていく。
 赤信号で、車が急停止した。その拍子に、黒い包みが少し開いたようだ。臭いが増して、後部座席の僅かな隙き間から、何かが見える。まさか、人体の一部? 暗くてはっきりとわからないが、さらに一層、私の恐怖が募っていく。
 今夜に限って赤信号が多いのか、何度も車が引っ掛かる。その都度、運転手はチッと舌打ちをして、イライラを隠さない。
 もう、私の恐怖も限界に近い。
 やっと……目的地につき、私は無事、車から降りることができた。しばらくは足が震えて歩けず、立ちつくす。私は車のナンバーを手帳に控えた。これで良し――。

 足をもつれさせながら、彼との隠れ家にたどり着く。そこは、郊外に立つマンションの最上階だった。
 私が遅いのを心配した彼は、ドアの前に着物姿で立っていた。文筆業の彼は、ほとんど一日中、着物を着て過ごす。遅筆の彼の原稿を幾度となく催促に通ったものだ。
 部屋に入った私は、懸命に車の中の出来事を話した。そして、手帳を見せる。
「警察に通報しようか」
 すると、彼はいきなり笑い出した。
「そんなバカなこと……。死体を運ぼうとしている車が、わざわざ客を乗せるかい? ちょっと考えればわかるじゃないか。本当に君は、面白い人だ」
「そうか、そうだよね」
 私もつられて笑った。さっきまでの恐怖も一緒に笑った。
 が、それでもまだ何となく心細い私は、彼を後ろから抱きしめ、背中に顔をうずめる。
 彼はつぶやくように言った。
「しかも、この話を警察ですれば、どうしても、君はここに来る理由をはなさなくちゃいけない。もう担当編集者でもない君と、僕との関係を話すことになる。藪蛇にならないか」
「……」。これまでの彼との事が、私の頭の中をかけぬけた。何度となく考えた逃避行、死。それでもこの人と一緒にいる。そして、常にある別れへの恐怖――。
 私は、この”恐怖“こそ、一番こわい。
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