遊子は、夕方、ランニングすることを日課にしている。
年を取ると足腰が弱くなり、少しでも運動しなければと思うからである。
天気の良い八月の下旬、日中のギラギラした太陽が少し衰えたころ、遊子は、喜び勇んで屋外へ駆け出した。
程よい風が頬を撫でてくる。やはり外の空気は気持がいい。道端には朝顔が咲き、高い空には入道雲がムクムクと立ちあがっていた。
遊子が育ったこの街は、愛着のある世界で、お馴染みのランニングコースが展開される。
最初に出会うのは、イチョウの木のある松島公園だ。
「アレ? いつもと違う!」
公園などどこにも無く、目の前は、今まで見たこともない田圃の風景だ。
近くに高層マンションが立ち並んでいるはずだが……見当たらない。
その代りと言ったらおかしいが、低い屋根の小さな民家が点在している。丸太でこしらえたロッジ風の家もあるぞ。
すべての景色が、遊子には、なんだか不気味に映った。
なぜ、このような不思議な現象が眼前で起こっているのか、ランニングしながら遊子は考えてみる。確か二、三日前にも、ここを通った気がするのだが?
交差点に差しかかった。
迷わず、いつも通り右に曲がってみる。
ここには大きなスポーツジムがあり、楽しそうなエアロビクスの音楽が軽快に流れてきていた。遊子は目を閉じて、じっと耳を澄ましてみる。
静かだ。静かすぎて、風の音しか聴こえてこない。そっと目を開けてみると、そこは、更地になっていた。
「何なんだ、この世界は?」
いつもならもう少し行くと、川の土手に出る。そして、橋のたもとには交番があり、お巡りさんに挨拶をして商店街へと向かう。
これが、お決まりのコースだった。
今はただ、だらだらとした坂道が続き、松林を通る風に汐の匂いが混ざって海が近いのを感じさせる。
この現実世界には、遊子の知っている景色がどこにも無い。
まるで、異次元の世界にタイムスリップしたかのようだ。
「だったら、脱出するしかない」
遊子は思いっきり走るスピードを上げた。
だが、すぐに息が切れて、あえなくペースダウンする。年甲斐もないことをするんじゃなかった、と反省した。
年甲斐? ふと、遊子の背筋に冷たいものが流れた。
「まさか……ボケが来た?」
日が傾いてきた。
すると、遊子は具合の悪いことに、尿意を催してきた。
いつものコースならトイレのあるところはわかっているが、初めてみる新世界では、とんと見当がつかない。
トイレ、トイレ、トイレと探し回った。
遊子は慎み深い性格だから、何処ででも良いというわけにはいかない。もうこうなれば、一目散に我が家へ戻るしかない。
「蘇鉄の木のある家へ帰ろう」
遊子は我慢に我慢を重ねて、必死で走った。そして、蘇鉄の木にたどり着くと、飛んで行って、幹に隠れて用を足した。
「遊子、今日一緒に走ったランニングコースが初めてだったから驚いただろう。昨日、僕たちは引っ越してきたばかりだからね」
飼い主の新一が、遊子の頭を撫でた。
「しかし、お前は賢い犬だ。さすが、オシッコするところを間違えなかった。遊子のお気に入りトイレの蘇鉄を運んで来て良かったよ」
今日、初めて目にした汚れなき新世界は、明日から遊子にとって、汚しがいのある世界へと変わってゆくであろう。