コンテスト参加作品(4)
『漕ぎ来たる女』
コウ
 嵐の真夜中。お久は、三日間も降り続いている横殴りの雨にも全く動じることなく、休まず鍬を振り続けていた。鋭い刃が、着実に川堤の上を切り崩していく。足元のすぐ横では、轟々と流れる川の水が、その出口を求めて渦巻き、恐ろしいほどに猛り狂っている。
 同じ頃、太吉は布団の中で、雨戸越しに嵐の音を聞いていた。隣には三日前、夫婦になったばかりの女が眠っている。だが、太吉が考えていたのは別の女のことだった。
 お久は、小舟で隣村から野菜や惣菜を売りに来る娘だった。太吉の働く川舟問屋は、お久の上得意で、若い独り身の二人が親しくなるのも当然の成り行きだった。そしてそれは何の問題もなかったのだ。あの日までは――。

「なんで、もう会えないの!」
 お久の叫び声が、狭い物置小屋の中に響いた。太吉は、慌ててお久の口をふさぐ。
「仕方ねえだろ。旦那様からのお話だ。俺には断れねえ」
「だけど、来年の春には一緒になろうって約束したじゃないの。だから私も、あんたの言うことは何だって……」
 お久の声が途切れ、涙があふれ出てきた。
「まあ、待てや。俺だって、おまえと一緒になりたいんだ。それがどうしてか、商い先のお嬢さんが俺のことを気に入って、旦那様を通して婿養子にと言って来たんだ。断ったら旦那様にまで迷惑をかけちまう」
「何を勝手な! 私のことはどうなるの!」
 お久は太吉の胸に顔を埋めた。迸る涙が太吉の半纏を濡らす。
 太吉は宥めるように、赤糸模様の入った絣の上から、お久の背中をさすった。
「そんなら、俺があのお嬢さんと夫婦になってからも、こうして会えばいいさ。俺はいつも、おまえのことを想ってるんだから」
 お久は全身をこわばらせると、太吉を突き飛ばして体を離した。
「あんた……ほんとは私を好きだったんじゃないのね? 誰だって良かったのね!」
 お久は顔を覆い、身をよじった。
「分かったわ。もう、どうでも勝手にすればいい。だけどこのままじゃ済まさない……そのお嬢さんとやらにも、思い知らせてやる!」
 太吉は、お久の凄まじい形相にたじろぎ、思わず二、三歩下がった。後ろの棚に置かれていた鉈の柄が、太吉の手に触れる。
「その女と一緒になったら、どこまでだって舟で追いかけて、あんたを殺してやる!」
 太吉は、その言葉を遮るように鉈を振った。

 太吉は跳ね起き、その光景を追いやった。この屋敷は川から遠く離れた、それも高台の上にある。舟では近づくことすらできない。
 突然、遠くで轟音が鳴り響き、屋敷が揺れた。「決壊だ!」
 長年、川の傍で働いてきた太吉にはすぐ分かった。濁流が高台の下の家々を押し流す様が、ありありと脳裏に浮かんだ。

 翌朝、ようやく風雨が止み、太吉は恐る恐る雨戸を開けた。まだ薄暗い中、わずかに残った家も屋根まで水に浸かり、屋敷のすぐ下までが巨大な泥池のようだった。人の姿は全く見えず、奇妙な静けさが漂っている。
 そのとき、薄暗い池の彼方から、小舟がやって来るのが見えた。ギーギーと櫓を漕ぐ音が微かに聞こえる。太吉は立ちすくんだ。
 小舟はやがて、屋敷のすぐ近くまで来た。小舟の胴の間には、鉈と泥まみれの鍬が置かれている。その小舟を漕いでいたのは、赤糸模様のある絣を着た女だった。
 しかし、その女には――あるはずの首が無い。
「お久は、人目につかない堤の陰まで小舟で運んで、鍬で穴を掘って、首ごと深く埋めたのに……」
 首の無い女が、舟の上で腕を振った次の瞬間、太吉の首に深々と鉈が突き刺さった。


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