コンテスト参加作品(10)
『芝居見物』
ふう
 つぐみは、白髪まじりの薄くなった髪を束ね、毛先をくるっと巻いて、ピンで留めた。皴だらけの顔面にファンデーションを塗りこめ、口紅をいつもより赤く濃く塗った。
 七十五歳にしては思い切った若づくりだ。
「おい、どこへ出かけるのや?」
 夫が声をかけてきた。
「ぎゃっ、おとうさん……」
「どうした? そんなにびっくりして」
「お、お友達とお食事会よ」
 ハンドバッグを忘れかけたが、危うくつかんで、よたよたと玄関をでた。

 三日前に、近隣の老人会で山瀬の爺さんに、歌舞伎に誘われた。彼は夫と同い年の八十歳だが、顔の色がつやつやして若く見える。
「どやろ、愛之助が出てるんやがな。わしはもうちょっと渋いのが好みなんやけど、阿川さんはどうかな」
「ひぇーっ、そら、わたしは大好きですよ。でもぉ、お宅にはお若い奥さんが……」
 十五も年下の後妻さんだ。(それを何故?)
「若い女房もよろしいけどな。たまには、しっとりとしたおなごさんと芝居ぐらい観に行きたい。あんさんは、わし好みのお人だす」
「まっ、アホなこと言いはりますわ」
「アホでっしゃろか。ちゃいまっせ」
 山瀬の爺さんは、気色ばんだ言い方をした。
「堅いこと言うてたら、老け込むだけだっせ。この先、何もええ事おまへんで。奇麗事言うてても、よぼよぼになって死ぬだけや」
「そら、そう言えば、そうですけどぉ」
「なんぼ誘ったかて、それ以上何もでけへんよ。あんたさんかて、何をする気もおまへんやろ。ただ松竹座で昼の公演観て、うどんすきつついて、帰りましょうやないですか」
 つぐみは揺らいだ。――この歳で、うちの人を放ったらかして、よその男と芝居見物やなんて……山瀬さんも、強引なお人やけど、私も悪い女や。でも、一緒に出かけるのが、バレたらどうしょう――
 その危なさと、満更でもないうれしさが、つぐみの心を、いつになく浮き立たせた。

 その日になった。つぐみは約束のバス停へ向かう。足元がふらついて、胸がどきどきしてくる。バス停へたどり着くと、無人だった。。
(本当に、来はるやろか……)
 そのとき、「阿川さーん」と呼ぶ女の人の声が聞こえてきた。山瀬の爺さんを従えて、若い奥さんが手を振りながら近づいて来る。
「主人が、老人会でお世話になってまして」
「あっ、いえいえ、とんでも、そんな」
「どうされましたの、慌てて……」
 山瀬の奥さんに、顔を覗き込まれた。赤く塗りつけた口紅を見透かされているようで、顔から足まで、じわりと汗ばんできた。
「あああ、慌ててませんよ。どちらまで?」 
「わたしら夫婦で歌舞伎を観に行きますの」
「へえっ。そ、それは結構なことで」
「うちの人ったら、物忘れが始まったみたいですの。今日は誰と行くんやったかなあって、朝から首傾げてますのよ。わたしではない、どなたかと行くつもりだったのかしら……」
 奥さんは、爺さんの方へ向きをかえた。
「ねえ、あなたっ!」
「はいっ。どなたやら、こなたやら」
 爺さんが大慌てで応えている。
「変な人。こんな年寄りの介護をしながら、お芝居観たって、楽しくないでしょうに」
「そうですよねぇ」と、つぐみが言った。
 バスが来た。
「あらぁ、乗らないのですか」
「ええ。たった今、用事を思い出しましたの!」
 若い奥さんは、爺さんの尻を後ろから押し上げながらバスに乗る。ふたりが席に着いたのが見えた。
 妻の背後から、こっそりと山瀬の爺さんが片手をあげ、ウインクまでして、つぐみに謝りを入れてくる。つぐみは、思いっきり知らんぷりをしてやった。
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