コンテスト参加作品(11)
『スコール』
MARIKO
「いやっ、やめて!」
 由美は、いきなり覆いかぶさってきた現地の若者に抗い、思わず大声を張り上げた。

 ここは東南アジアの小さなリゾート地。どこまでも広がる青空と、夏の光に煌めく深緑色をした海が壮大すぎて眩暈がしそうだった。
 いま、波の音を聞きながら、由美は大海原の真ん中に浮かぶプレジャーボートの上で、夫の耕一とインストラクターがダイビングから戻ってくるのを待っている。
 このボートを操縦しているのは「タカット」という名前の、浅黒い顔でたくましい身体をした二十歳くらいに見える若者だ。彼は、先ほどから何度もフロントガラス越しに、舳先のチェアに座っている由美の方を窺っていた。
 由美は、三十五歳という年齢のわりに童顔でスタイルがいい。胸が開いたTシャツと短パンを着て、大好きな推理小説を読んでいる。
「海の上のサスペンスってのも乙じゃないか」
 耕一に、そう誘われ、砂浜で飲む昼下がりのビールを諦めて、ボートへ乗り込んだのだ。
 小説の主人公が、ちょうど窮地に陥ったところで、由美は本を閉じた。何気なく首を上げると、船室のタカットと目が合う。
 笑うでもなく、怒っているでもなく、表情のないタカットの真剣な眼差しは、由美を少し不安にさせた。五十分のダイビング時間は、あと数分で終わる。もうすぐ夫は戻って来る――由美が思った、その時だ。
 タカットが操舵席を離れ、何かわからない現地の言葉を叫びながら、物凄い勢いでこちらへ向かってきた。驚いた由美は、チェアから転げ落ちる。そこへ、タカットは覆いかぶさってきたのだ。「やめて!」と叫び、抵抗したが、由美は軽々と男の胸に抱きしめられた。

 二人きりの小さなボートは、猛スピードで、あろうことか沖へ向かって走り出している。
「待って!」。由美は、何度も叫ぶ。
「さっきの場所で夫たちを待っている約束じゃなかったの。もうすぐ戻って来るのよ」
 日本語も、片言の英語も通じなかった。
 タカットは、白い歯を見せてニヤリと笑うだけで舵から手を離さない。船室に押し込められた由美は、改めて思い知る。誰も助けに来てくれない。この海の上で私は、屈強な男とたった二人きりなのだ。
 いつの間にか降り出した雨が、容赦なくガラス窓に突き刺さる。スピードに乗ったボートは、ひどく揺れて、転覆しそうだ。
 これからどうなる。私をどうするつもり。雨か波か涙かわからないが、気がつくとTシャツが濡れそぼり、下着の形が露わになっている。左手に小さい島が見えてきた。私は、絶海の孤島で襲われるに違いない。由美の頭の中に『大海原に消えた日本女性』という、新聞の見出しが浮かぶ。
「耕一、助けて!」
 ついにエンジンが止まり、碇が海に投げ落とされた音がする。由美は、怖くて、蹲ることしかできない。彼が獲物を狙うように、近づいてくる気配がした。
「いやぁ、来ないで」
 彼の手が由美の顎を上げ、顔が近づく……。

 耕一たちは海面から顔を出して、のんびりと待っていた。やがて戻ってきたボートに乗り込むと、インストラクターがタカットの喋る現地語を翻訳して耕一に聞かせる。急に大きな悪い雲が出たので、その激しいスコールを避けるため、タカットは沖の小島へ向かったということだった。
「海中から見るスコールは、海面が万華鏡のようで、それは幻想的だったよ。さて、由美。今回の海上サスペンス劇場はどうだったかな」
「もちろん、スリル満点で、最高だったわ。タカット、有難う」。一人でパニックになって、彼を疑った自分が恥ずかしい。だが、耕一には澄まし顔で答えるしかない、由美だった。
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