コンテスト参加作品(12)
『本の家出』
あんな
「私は家出する。出ていく理由をよく考えてほしいもんだわ。本より」
 残業で疲れ切って帰宅した恵理は、テーブルにこんな紙切れが乗っているのに気付いた。
「私って誰? まさか本当に本が字を書いたわけはないだろうし……」
 恵理は薄気味悪く感じて、恐る恐る部屋中を点検した。しかし、肝心な本棚を見ても、好きな本がなくなっている様子はない。
 三十八歳で独身の恵理は、誰かのいたずらかと思い困惑した。だが、すぐに多忙な仕事の日々に追われ、次第に紙切れのことを忘れていった。

 ある日、非通知の着信があった。
「もしもし、私だけど」
「……私? ええっ!」
 恵理は、あの紙切れを思い出し驚いた。
「書置きを見たはずなのに何もしてないわね」
 キンキンと尖った声がする。
「アンタの本に対する気持ちがよく分かった」
 そう言うと電話はブチッと切れた。

 深夜に帰ってきた恵理がカギを差し込もうとした時、ドアの前に一冊の古びた本があった。
「何なの、この本は?」
 手に取って部屋に入る。
「やっぱり忘れてる。私よ!」
 本から、あの電話と同じ声が聞こえてきた。
「きゃー!」
 恵理は悲鳴を上げ、本を落とした。
「イテテテ」
 本は身をよじり、ページの間からレシートを吐き出した。恵理が、そのレシートを拾う。
 そうだ。この本を、半年前に駅前の古本屋で買ったんだった……。レシートを見ながら、恵理は、そのまま一度も読まずに忘れていたことを思い出した。
 この本が書置きやら電話をかけてきたの?
 恵理が不思議そうに本に顔を近づけると、突然、頭痛と眩暈がしてきた。思わず、床に倒れ込む。すると、薄れていく意識の中で、悲しそうな声が響いてきた。
「本を買った限りは目を通してほしいわ。私にだって気持ちはあるのよ」

 恵理が意識を取り戻すと、暗闇の中にいた。
 助けを呼ぼうとしたが、口が開かない。手足も動かせない。不安でパニックを起こしかけていると、どこからか声がした。それは、よく聴き慣れた自分の声だった。
「気が付いたみたいね。実は、私は長い間、誰にも読んでもらえない本だった。本も三十年程生きるとね、魂を持つの。私は、『素敵な変身術』という本なのよ。だから、アンタを本に変えてあげたわ」
 ええっ、本になってしまったの?
 恵理は、愕然とした。
「アンタ自身が本になることで、読まれない孤独がどんなに辛いか、よくわかるでしょう。私はね、アンタに成り代わって気楽な人間として生きることにしたから」
 そして、恵理は彼女の手で本棚の奥に入れられ、本として生きることになった。最初は訳がわからず、誰か助けてくれないかと願っていたが、やがて何も感じなくなっていった……。

 ある日、恵理は、いつもと違う感触を覚えた。
「人間がこんなに慌ただしくて大変だとは思わなかったわ。正直、三ヶ月でもう疲れた。誰にも邪魔されない生活に戻りたい。元の世界に、お互い戻ろう」
 恵理は本棚から取り出され、彼女に言われた。しかし、恵理は頑としてページを閉じたまま身を固くした。
「開けてよ。もう人間に戻っていいのよ」
 彼女は、必死にページをこじ開けて中を見ようとしたが、恵理はピクリとも動かなかった。
 本の世界がこんなに静かで、満ち足りた気持ちになるとは思わなかった。誰にも、この穏やかな孤独を邪魔されたくない。
 恵理は彼女の絶望的な呻き声を聴きながら、満足げに暗闇の中へゆったり身を沈めていった。
clipimg