コンテスト参加作品(13)
『入学式の日』
まり
 左から車が迫ってくる。横断歩道を渡っているのに、なぜ止まらないのか。
 敦子は、はっとした。今は赤だ。信号を無視しているのは私のほうだ。クラクションが響き、ライトが異常に接近する。躯が顫える。そこに蹲った。青に変わった。
「大丈夫ですか」
 声のした方を見る。一瞬、直人かと思った。見知らぬ若者とわかって、ただ無言で頷く。
 
 先ほど、大学図書館で数冊の本を借りてきたところだ。いつもと違って、構内は人出に溢れているのに驚く。今日は四月一日で、入学式の日だとわかったとき、敦子は晴れやかな、希望と期待に満ちた人々に囲まれていた。
 私たちもそうだった、と五十七歳の敦子は記憶を甦らせる。正門前で記念写真を撮った。
 夫と私は、息子が念願の大学に入学して、満面の笑みだ。でも直人は笑っていなかった。緊張の面持ちだったのは、自分の運命を凝視していたからか……。
 その時のことが次々に思い返され、敦子は信号が赤になったことさえ、気付かなかった。
 

 顫えの止まらぬまま、敦子はアパートの二階の自室に戻った。三畳のDKに六畳の和室。窓から大家の庭の木々が見下ろせる。かつての自宅にも、同じような庭があった。この庭を眺めていると、夏休みの朝に昆虫を見つけて、敦子を呼ぶ子供姿の直人が目に浮かぶ。
 直人の死は嘘。この庭を見る度、そう思う。

 
 直人は大学四年の春、車を運転していて道路のカーブを曲がりきれず、ブロック塀に激突して亡くなった。
「おまえが免許を取れと言ったからだぞ」
 敦子を責め続ける夫とは、離婚した。家も売り、それまでの街も捨て、誰ひとり知人のいないこの町に逼塞して暮らすことにした。
 そして、もう五年間の孤独が募る。
 アパートの近くに大学があった。構内は緑が多くて広い。学生の姿も、それほど気にならない。直人の大学とは雰囲気が違うのを感じ、それならと敦子は大学図書館で市民利用カードを作った。二週間に一度、ここを行き来するのが、唯一の外部との接触だった。

「大丈夫ですか」
 今、庭を眺めていると、あの若者の声が耳に響いてくる。すると、敦子の胸に生命の息が吹き込まれたかのように清新な思いが溢れてきた。
 私が生きている限り、私の思いの中で直人は生きている。このままだと、閉鎖的な小箱の中で、私も直人も腐蝕してしまう。この澱んだ空気を一新してみよう。もっと風通しを良くして、現実世界と接触してみよう。

 
 二週間後、図書館に入ると、カウンター内にいた若い係員が立ち上がった。敦子は驚く。
 先日の若者にそっくりだ。思わず声をかける。
「この間は、どうも・・・。私、ぼんやりしていて。正門前の歩道で立ち往生してしまって」
「危ないところでしたね。車には気を付けないといけませんよ」
 敦子は打たれたように若者を見た。直人は神経質であったが、彼は伸びやかな印象だ。何年ぶりだろう、活きた人間と話をするのは。
「今日は返却だけですか」
「あなたがいるから、何か楽しい本を探すわ」
 書架へ向かいながら、敦子は思った。
 今日は、新しい世界への私の入学式の日ね。

 カウンター内の若者は、敦子の後ろ姿を目で追いながら同僚の中年女性に話しかけた。
「あの人ですね、先輩が噂していたのは」
「そう、あの女の人よ。入学式の日、赤信号の横断歩道で蹲っていたのは。私も現場を目撃してヒャッとしたんだけど、誰も声をかけずに……独りぼっちで、お気の毒だったわ」    
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