コンテスト参加作品(14)
『匂い』
 朋子の視線は、数メートル先に停車中の、見覚えのある白いセダンに張り付いた。
 夫の勉(つとむ)が運転席にいる。助手席には朋子の知らない若い女が……。夫は彼女の横顔を見つめ、なにか話を聞いている。
 朋子は思わず郵便ポストの後ろに隠れた。誰だろう、あの子は。留学している娘と同じ、二十歳を少し過ぎた位か。なぜ夫の車に?
 夫は教諭をしている。今日は体育祭の振り替え休日だが、片付けが残っているのでと早朝から学校に出かけて行った。
 しかし今、夫の車は市場に続く緩い登り坂で停まっている。朋子が毎日、買い物に行く場所で、近所の人にも目に付く所だ。やましい事があるなら、こんな目立つ場所で話し込むはずがない。そう考えると少し落ち着いた。
 が、突然、車が動いた。何処に向かうのだろう。タクシーがいれば追いかけたかった。
 結婚して二十五年。夫は浮気をしたことがない、と朋子は信じきっていた。まさか、援助交際? かすかな疑念が浮かんだ。

 夫はその日、夜十時を過ぎて帰って来た。
「遅かったのね。先にお風呂? ご飯?」
「うん……風呂にする」
 脱いだ上着を受け取ると、朋子はこっそり鼻を近づけてみた。香水の匂いはしない。化粧の匂いも――しない。ただ、吐く息からはずっとアルコール臭がしている。
「お風呂、大丈夫? 飲んでるんじゃないの」
「少しだから大丈夫だ」
 そう言うと、なぜか朋子の目をじっとみつめてきた。それは数秒だったが、いつものような穏やかさはない。ぎらぎらしていた。
 夫が風呂から上がって、朋子は給仕をしながら、彼が今日の昼間の事を何か言うかもしれないと待った。だが、夫は食卓に並んだ煮物や焼き魚を黙々と食べている。
「今日、学校……どうだった?」
 黙っているのが耐えられなくて訊いた。
 夫は考え事をしていたみたいに「うん?」という顔を向ける。
「片付け、長引いたの?」
「いや、お昼には終わった。……帰りに卒業生の一人から話したい事があると言われてね」
「そうだったの。で?」
「君、大村って人、知っているか」
 朋子はハッとして一瞬、絶句した。
「……知らないわ」
 その名は聞いただけで虫唾が走るのだ。

 あくる朝、夫はいつものように出勤した。
 大村という名前を言われた時の驚き! しかも、車の中にいたのが大村の娘とは……。
 もう、後悔しかなかった。
 先月、夫が勤務する養護学校で教職員とPTAの懇親会があった。朋子は急用が出来た勉に頼まれて代行で出席した。二次会は繁華街へ。そこで、酔った大村が蛇のようにまとわりついてきた。朋子も酔っていた。帰り道を送って行くからと言われ、強引に連れ込まれたラブホテルで間違いを起こしたのだ。
 大村は冗談交じりに、朋子との事を娘に告げたという。その子は軽い知的障害を持つ。だから夫は百パーセント、彼女の話を信用したわけではない。いや、否定したい気持ちが強いはずだ、と朋子は咄嗟に感じた。
 そして……昨夜、勉は朋子を求めてきた。激しく責めながら、本当はどうなのだと詰め寄ってくる。朋子は最後まで白を切り通した。
「そこまで潔癖だというなら信じるしかない。認められる方がしんどいからな」
 これから一生、秘密をかかえて生きていくのかと思ったら、朋子は身体が震えた。眠れぬまま、夫に背を向け、息を潜めて目を瞑る。暫くして背中越しに夫が寝言のように呟いた。
「ひと月ほど前の夜だったかな。おや? と思ったんだ。その時、君とは違う匂いがした」
 日付が変わった今も、まだその言葉が朋子の頭の中を支配している。
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