「4枚小説」作品『トリスタンとイゾルデ』

コンテスト参加作品(15)
『トリスタンとイゾルデ』
まあさ
 木枯らし吹く晩秋の深夜、瑠維は気分転換に向かいのコンビニに出かけた。
 日本画家の瑠維は、来年春の作品展に新作を出品しなければならないのに、なかなか描けないでいたのだ。
 マーマレードの瓶をひとつ買って外へ出て正面の中層マンションを見上げる。三年前、三十歳にして美大の講師に採用されたのを機に、この最上階にアトリエをかまえた。
 目を凝らすと、中ほどの角部屋に電気が点いている。リサがいるようだ。
 五階まであがり、チャイムを鳴らすと、長身に、すずしい目をした六歳年上のリサがあらわれ、無愛想に瑠維を部屋へ招き入れた。
 作曲家のリサが仕事場にしているこの部屋は、デスクと電子ピアノ、ソファを置いただけの簡素なものだ。リサがデスクに着き、パソコンのキーボードを叩くとディスプレイのなかの五線につぎつぎと音符が記されていく。
 瑠維は紅茶を淹れて二つのガラスのマグカップにそそぎ、マーマレードをひと匙ずつまぜた。ソファにもたれてマグを両手で包みこみ、リサの端正な横顔をあかずに眺める。
 背伸びをしたリサに、瑠維は声をかけた。
「リサ、新曲できた?」
「うん、だいたい。瑠維の新作は?」
「ぜんぜんだめ。アイデア浮かばなくて」
 半年前に交際をはじめて以来、瑠維の頭の中はリサへの想いでいっぱいだった。
「こないだ行ったオペラ、聴いてみれば?」
 リサがCDをかけた。部屋じゅうワーグナーの、ねっとりとした官能的な空気に満たされる。騎士トリスタンと異国の王女イゾルデの燃えあがる禁断の愛の世界に、瑠維は陶酔する。リサはぬるんだ紅茶のマグを手にし、媚薬をあおるように呑み干した。
 フルーティーで甘酸っぱい香りと濃密な管弦楽の響きのなか、マーマレード紅茶にただようオレンジ片のように、ふたりは、からみあった。

 クリスマス・イブの黄昏どき、瑠維は貴腐ワインを片手に、リサの部屋のチャイムを鳴らした。しばし間があって出てきたリサは、にこやかにドアに立ち塞がる。
「はい」とリサはCDを差しだし、奥に向かって声を張り上げた。「あなた、上の階にお住まいの絵の先生よ。CDを貸す約束だったの」
 部屋から香ばしい匂いがおしよせ、玄関のすみに、磨きあげられた男物の大きな革靴がそろえてある。
 瑠維は震える手でCDを受け取り、礼を述べて自宅へ帰った。
 アトリエへ入るなり瑠維は、描きかけの、等身大のリサの肖像画に向かってCDを投げつけた。絵具皿も乳鉢もガラス瓶も、手あたり次第投げつけた。絵筆箱に交じっていたワインの栓抜きを手にして、ずたずたに切り裂いた。足もとに転がっていた貴腐ワインのボトルも投げつけようとして思いなおし、栓を抜いた。
 瑠維は肩で息をしながら、荒れ果てたアトリエに座りこみ、松脂色の液を、瓶の口からひとくち含む。鼻腔をなでる高貴な薫り、舌にまつわる甘露の蜜……ふと床に転がるCDと目が合う。拾ってデッキにかけた。
 まったりとした霧がたち篭めはじめる。
 トリスタンの亡骸をまえにイゾルデが歌う。
 終わりのない変容、無限につづく旋律……目眩しそうになって目を閉じると、瑠維の脳裏に、蒼茫とした海底にたゆたうイゾルデがみえた。その指先が、まつ毛が、長い髪が、水あめのように煮詰まった汐水に、わずかに抵抗している。

 電話の着信音で目覚めた。外はすっかり明るい。携帯の画面を見て着信拒否スイッチを押した瑠維は、大判の画用紙を開いた。木炭を手に、真っ白な画面にイゾルデのイメージを一気に描く。そして細部を丹念に埋めていく作業に没頭した。
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