コンテスト参加作品(21)
『青い薔薇』
圭介
 六十路の坂は急勾配。庭の植木をいじっているだけで一日が暮れる。定年後、すぐに連れ合いを失ってはや五年が経った。まだまだ老人というには勿体ないと千田三樹夫は自負している。一人ぼっちの夕食後、「チャンスがあればもう一花咲かせてみたいね」と戸棚の妻の写真に話しかけてみる。「あなたに、今更何ができるの?」と妻がいう。
 年の瀬の迫ったある晩、すぐに間違いと分る携帯メールが入ってきた。文面からみると交換メールのアドレスをもらった女が、若い男の誘いに乗って返事を書いたものらしい。
 好奇心も手伝って、三樹夫は相手の男の代わりをしてやろうという気になった。こっちのしゃべり方で通じるだろうかと思ったが、意外にも女からは優しい心づかいの返信メールが返ってきた。
 女は優子、二十六歳で会社勤めをしているとあり、毎日を多忙な仕事に追われているらしい。こちらも負けじと若い頃を思い出して、悲喜こもごもを書き綴って送信した。彼女からは、独り身の気楽さや、好きな音楽への感想などが送られてくる。気心が知れるにつれて『野菜は食べてる?』『ミッキーと呼んでいい?』などと、愛くるしい言葉が増え、暖かく好もしい彼女の人柄がしのばれて、次のメールを待ち遠しく思うようになっていった。
 こんなに続くとは思えなかったが、こうなるともう成りすましの事実を言い出せない。勿論、一度会いたいと思う。が、それは不可能だ。顔も知らない上に、こちらは若くない。会ったが最後、メール交換はそれで終わる。彼女は不信と裏切りに対する憎悪で、人を信じられなくなるだろう。
 このまま続けていていいのかという不安の一方で、彼女の返信を心待ちにしている日々である。三樹夫は、戯れがこんなに甘美な悩みに発展するとは思いもよらなかった。
 瞬く間に半年が過ぎて六月、毎週欠かさずきていたメールが全くこなくなった。返信を催促しても、なしの礫。外国旅行でもしているのだろうか。音信不通が二ヶ月以上も続いて、三樹夫は庭いじりも手に着かなくなった。こんな嘘の空間に自分が溺れて沈み込むなんて、信じられないことだ。我ながら情けない。
 夏が終わる頃、長い沈黙を破って、突然メールが来た。やはり病院に入院しているという。切羽詰まった様子で、一度来てほしいという。迷っている暇はない。行かなければ――。いつか彼女は、青い薔薇が憧れだと言っていたが、それを持って見舞いに行こう。その時は自分の歳も判ってしまう。彼女との優しい空間は消えるだろう。

 そっと病室のドアを開けると、ベッドに黒い眼鏡の女がいた。
「どなたかいるの……。どなた?」
「優さん、私です。三樹夫です」
「ミッキー?。やっと来てくれたのね。ありがとう。でも私……、ごめんなさい。私……、生まれつきの網膜症が悪化したの。視力はもう戻らないかもしれないと先生が言うのよ。本当にごめんなさい、急に来てもらって……」
 優子は起き上がろうと首を持ち上げて振り向くが、力なくベッドに沈んでしまう。
「私、お化粧もしてないのよ。だって、いまは色がよく見えなくて……」
 黒眼鏡の優子は、温和そうな色白の美しい女性だったが、思っていたより老けて見えた。
「あら、素敵なお花を……。きっと青い薔薇ね。それ『夢叶う』って花言葉なのよ。ご存知だった? とても嬉しいわ」
「優さん、探したのですが本物の青い薔薇は手に入らなくて、これは偽装の染色なんです」
「偽装……? 本当に。――でもいいの。夢が叶って会えたのだから。ミッキーこっちに来て私を起こして。そうよ、そう。ありがと」
 三樹夫は優子の背中を抱き起こした。そして、ベッドの患者名が書かれたプレートに「小杉優子40歳」とあるのを見た。
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