コンテスト参加作品(24)
『海に降る雪』
かの子
「もはや戦後ではない」
 終戦から十一年が過ぎて国は経済白書に、そう記した。しかし、初枝は今も夕方になると、決まって近くの船着場まで出かけていく。学徒出陣から帰らない長男の芳雄を、舞鶴の港で待っているのだ。
 鉛色の空から降る雪が海に溶けていく。
「お義母さん、そろそろ家に帰りましょう」
 白い息を吐きながら迎えに来た嫁の友子は、ベンチに座って海を眺めている初枝の背にそっとコートをかけた。
「今日も帰って来んかったわ」
 初枝は肩を落とし、雪で白くなった道を友子と一緒に戻っていくのだった。
 その日の夜、友子は夫の隆に声をかけた。
「ねえ。お義母さん、大丈夫かなぁ?」
「大丈夫って、何が?」
「最近、独り言が多くなっているみたい」
「俺は聞いたことないけどな。まあ、しっかり者の母だから、大丈夫なんじゃないか」

 厳しい冬が明け、春の温もりが残る夕方。
 いつものように友子が迎えにいくと、初枝は船着場のベンチで手振りを交え呟いている。
「お義母さん。何か、お話していましたか?」
 訝りながら友子が尋ねる。
「ああ、お父さんが来てね。話しとったんよ」
 初枝はニコニコしながら答える。
「お義父さんは……」
 そこまで言って、友子は言葉に詰まった。
(何年も前に亡くなったじゃない)

 夏の盛りでも、あんなに元気だった初枝が、秋風に吹かれだすと、ちょくちょく体調を崩すようになった。そして、舞鶴の冬は早い。
 師走に入ってから初枝は風邪をこじらせ、今日も一日、ずっと布団の中で臥せっている。
 身体が熱い。横になっていても、身体が鉛のように重い。寝返りをうつのも一苦労だ。
 夜中も深くなり、やっと微睡みはじめた時に突然、海の方から大きな汽笛が聞こえた。
 表の道が、騒がしくなる。
 もしかして……。胸が高鳴った。
 なんとか寝床から這い出して玄関を開けると、沢山の人が「船だ」「引き揚げ船だ」と口々に叫び、船着場へと走っていく姿が見えた。
 こうしては、いられない。重い身体を引きずり外に出ると、人波に押されて歩き出す。
 果たして、いつもの船着場には久しく見ない大きな船が横付けされていた。周りは、迎えに来た人々が呼び合う声で騒々しい。
「芳雄は、おらんか!」。声を限りに、負けじと人混みを縫うように進んでいく。
 何度、名前を叫んだことだろう。
「かあちゃーん」
 振り向くと、甲板から手を振る姿が見える。足が震えた。懐かしい笑顔が近づいてくる。出征した時と同じ薄茶色の軍服姿だった。
 あんた、どこに行っとったんよ。
 母ちゃん、ずっと待っとったんよ。
 言いたいことはいっぱいあるのに、涙が次から次へと溢れ出し、言葉にならない。
 芳雄が、白い歯を覗かせて微笑む。
「かあちゃん、ただいま」
 嗚咽で崩れ落ちそうになるのをこらえて、やっとのことで声を絞り出して言った。
「おかえり……」

 朝、友子が部屋を覗くと布団の中に初枝の姿はなかった。家中を探し回ったら、玄関の鍵が開いている。友子は隆を叩き起こし、「もしや」と二人は船着場へ走り出した。
 いつものベンチに人影が横たわっている。
 嫌な予感を抱えたまま近づくと、初枝が、すでに事切れていた。夜中からの雪が、全身を包み込んでいる。積もった雪を払って白髪を掻き揚げ、友子は初枝の眠る顔を見た。
「あなた! お義母さん、笑っているわ」
「母ちゃん……兄貴に会えたんじゃなぁ」
 友子と隆の肩に、今また雪が舞い始めた。
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