コンテスト参加作品(25)
『読み違え』
 一九八五年 四月。
「お願いがあるの。とても難しいお願いよ。もし叶えてくれたなら、私はあなたをいつまでも待ちます。あなただけを、ずっと」
 
 二○一〇年 五月。
 久しぶりに歩く坂道は、昔と全く変わっておらず、それは秀明を大層安心させた。時折見かける桜の樹は、もはや緑の葉のみとなっており、春の終わりを告げている。
 秀明が陶子に電話をかけたのは、今から一週間前のことだ。
「はい、松川でございます」。
 受話器越しに、懐かしい陶子の声が聞こえると、秀明は胸が高鳴った。
「陶子。僕が誰だか、わかるかい」
 秀明のその声に、受話器向こうから、ゴクリ、と陶子が唾を飲み込む音が聞こえる。長い沈黙が流れてから、ようやく陶子が声を発した。
「まさか、中川さん……」
「その、まさかだよ! 陶子、待たせたね。ああ、陶子、君に会いたい」
「……」
「すまない、陶子。僕は待たせすぎた。何せ、二十五年間だ。ただ、これだけは知っておいてほしい。僕はどこにいても毎朝毎晩、君を想って目覚め、君を想って眠っていたんだ」
 秀明は、全国各地を転々とした後、海外を周る船に乗り込むと、寄港地から陶子へ匿名の絵葉書も出しておいた。今も陶子が以前と同じ家に住んでいることを確認すると「近々会いに行くから」と言って、電話を切ったのだった。

 坂道を上りきり、古い邸宅の立ち並ぶ中に建つ洋館の前まで来ると、秀明は歩みを止めた。門扉横にある表札を見つめると、そこには昔のまま『松川茂・陶子』とあり、秀明は束の間それを眺めてから、インターホンを押した。少しして、「どちらさま」と陶子の声が流れる。
「僕だ、中川」。秀明が名乗ると、しばらくの沈黙の後、インターホンがブツリと切れた。そこから、たっぷりと待たされ、痺れを切らしかけた頃、門扉の奥にある重厚な玄関扉が開き、陶子が姿を見せた。
 二十五年ぶりに見る陶子は、昔のような危うく可憐な雰囲気はなく、代わりに、女盛りの妖しい美しさを纏っている。そんな陶子を見つめていると、秀明は胸が熱くなり、思わず二人を隔てている門扉に手をかけた。
 その時だった。
「よして! 入ってこないで!」
 陶子の厳しい声に、秀明は驚いた。
「中川さん、あなた、もしかしてご存知ないの? そうね、きっとそう。だから今、あなたはここに居るのね」
「陶子、一体、何を言ってるんだ?」
 恐る恐る、そう尋ねる秀明に陶子はひとつ、大きなため息をつくと、ゆっくりと話し出した。「先月、法律が変わったのよ。そしてね、殺人事件の二十五年という時効がなくなったの」
「……」
 海での長い暮らしが、迂闊だった。
「二十五年前、突然の侵入者に夫を殺されて、私がどんな思いをして独りで生きてきたか……。あなたは今も全国に指名手配されているのよ。もう逃げ回るなんて下劣なことはやめて、今すぐ自首すべきよ!」
「下劣? いや、あれは君が言ったんじゃないか! 『あなたを愛しすぎて辛い。あの嫉妬深い夫には、うんざりなの。どんな手段を使ってでも、あなたと一緒になりたい。お願い、あなた。もし叶えてくれたなら、私はあなたをいつまでも待ちます』と、確かに君はそう言った!」
 必死に喚く秀明を、陶子は冷ややかに見た。
「確かに昔、私達は人知れず情事というやつに耽っていたかも知れない。そんな甘い言葉を言ったかも知れない。でもね、私はすべてにシラを切るだけ。あなた、まさか今でも本当に私が恋焦がれて待っているとでも思っていたの?自惚れないで。あなたは全てを読み違えたの。情事の成れの果ても、世間の正義も」
 愕然とする秀明の耳に、何台ものパトカーのサイレン音が聞こえてきた。
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