コンテスト参加作品(26)
『きえてゆく』
ろっぱ
「としこ~、はよぉ起きといないやぁ~」
 こども時代の、朝が始まる音。ぬくたいお布団から、いやいや出んとあかん音。さっきから、パチ、パチンと四方へ柏手を打つお祖父ちゃんの音。
「ちづこ~」と、お母ちゃんを呼ぶお祖母ちゃんの声。台所からはカチャカチャと鳴るお茶碗の音に混じって味噌汁のふわぁ~とした匂い。時間割ができてへんかって、ランドセルに入れる、筆箱や宿題ノートのせわしない音。
「はよせえな、学校おくれるえぇ」と、うちらを追いたてるお母ちゃんの声。「ほないってくるわ」お父ちゃんが役所へ仕事に行く音。「カチン、カッカ」おじいちゃんが煙管で火鉢の縁を叩く音。


 家の表、鬼門の少し引っ込んだ所がある。
 午後になると、「鍋、釜の直し」「傘の直し」のおっチャンが時々、店を出す。そんな時、としこは、台所に洗い上げてある、アルマイトの鍋を持って、おっチャンに渡す。
 カンカン、鍋を叩いたおっチャンが「じょうちゃん、これ、直したヤツやんか、ちゃうのんお母ちゃんにもろといで」とか「これもうアカンわ、さら買うてもらい」とか言うのを「かまへんねん、おっちゃん、うちここで見てるし」と答えながら、としこはその午後をずっと、おっチャンと過ごす。
 表通りを、バタバタが走っていく音。
「さおだけ~い・ら・んか~」と物干し竿売りのおっチャン、ほかにも青もん売りに来るおばちゃん、仏さんの花を売りに来るおばちゃん、いっぱい音があった。
 としこは夜になると、いろんな声色を真似して遊ぶ。真似しの中で、一番好きやったんが「はしご~やくらかっけっ」と、八瀬大原からのおばちゃんの声ぶり。
 あの頃、何にでも行きかう人々に音があった。
 シジミやあめ売りも、わらびもちも、お豆腐も、ピィ~~と煙管の、らお通しやさんは音だけやけど、みんな音があった。
 大人の声という音よりも、も~っといっぱいあったんが、子供の声やった。
「ケンケンせえへんか」「どろじゅんしょうな」「ごむ飛びは」「捕まえにしょうな」「ゲェタァ隠しわ」。それらの遊びは、みんな歌がついていた。「いちもんめのいーすけ」とか「ひとめふためみやこしよめご」
 表通りも裏通りも、町内ごとに、年上で、体も大きいて、声も大きい、みんなの親分がいて、イケズしたら、「おまえ~あかんやろ、小っちゃい子いじめたら、お前もいじめたろか~」と一喝。「堪忍、もおせえへん、しぃ~」と落着。何かを決めるのはいつでも「ちゅうせんぼ」親分の一声で動く。

“チュウチュウパッパ チュウパッパ
 走りの下のネズミが 草履をくわえてチュウパッパ
 チュチュク饅頭だれが食た だあれも食わぬ あてが食た
 チュッとこいて チュッとこいて チュッチュッチュッ“

 としこの周りには、声や音が満ちていた……。


 十糸子は八十歳を過ぎ、今は介護施設で暮らしている。
 一日中、自室で窓辺に座り、朝、昼、夜、ずっと黙って……昨日も今日も明日も、声という音の無い時間と空間に生きている。
“チュウチュウパッパ チュウパッパ”
 頭の中で、そんな音が聞こえたのか、指で膝を打ちだした。

「今日は、何だか楽しそうやね、おばあちゃん」
「きっと昔の、まだ子供やった頃を思い出してるんやないかな」
 十糸子の様子を見に来た子や孫たちは、そう言って微笑んだ。


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