エッセー
『あの時―私は生かされた―』
道子
 まさに「あの時」私は生かされた。八月が来るたびに、そう強く思わずにはいられない。
 太平洋戦時下の昭和二十年八月。
 当時、女学生だった姉、私、妹の三人は九州へ行くための汽車を待って、実家近くの岩国駅(山口県)にいた。
 それは、六日の朝である。
 突然、空襲警報が鳴ったが、なぜか一機だけの敵機襲来で、それはすぐに解除になった。
「単なる偵察だったのかも知れないね」
 私たち三人は、そう話し合った。
――後になって、解ったことだが、その時、私たちの頭上を東に行ったこの一機こそ、原子爆弾を搭載し、数分後に広島の空に人類史上最初の爆弾を投下した「エノラ・ゲイ号」であったのだ――
 その時は何も知るはずもない私たち姉妹の耳に、「ぼっ」という衝撃音がきた。
「何だったの? 今のは……」
 そう言い合いながらも、入線してきた汽車に私たちは乗り込んだ。動き始めた車窓から外を見ると、線路脇に立つ人々が一様に広島の方を指差し何か叫んでいるのがわかった。
(今まで何故か空襲を受けずに無疵であった広島に、何かあったのだろうか……)
 私は毎日、学校がある広島に通っていたが、たまたま今日、初めての欠席をしたのだった。

 私たち姉妹が九州に行くのは、特攻隊の人たちの出撃を見送るためだった。
 知り合いの隊員九名が、昨日、出撃の近いことを知らせてきた。出撃ということは、250キロの爆弾を抱え、戦闘機もろとも敵に突っ込んで爆死するということである。
 今日、私たちが到着し、最後の別れをするのを待っていてくれている。
 
 私が住む岩国は、航空隊基地で海軍の錨泊地でもあり、町には将校、士官、兵たちが多くいた。地元の医師である父が医師会の会合に出て、そこで海軍予備学生、特攻隊長の山岸中尉と知り合った。これをきっかけにして、部下の方全員が、我が家を訪れるようになっていく。「家に帰ったようだ」と寛ぐ若い隊員たち。私たちも彼らを家族のように迎え、みんながひとつになる大切な団欒の時を過ごしていった。
 だが先日、彼らに移動命令が下され、福岡「築城(ついき)」の基地へ飛び立っていったばかりなのだ。

 私たち姉妹が宿舎に到着すると、隊員の方々が歓声を上げて出迎えて下さった。が、もう明日七日は出撃の命令が出ている。会えたのに、時間はいくらも残っていない。
 翌朝、まだ明けやらぬ早暁。
 私たちは、無言の敬礼をして宿舎を出て行く隊員たちを、眼もあげられず玄関の外で見送った。
 その日、隊員のひとり、加藤さん爆死。
 焼けた遺品の、加藤さんのベルトが宿舎に帰ってきた。
「加藤さん!」「加藤さん!」。
 残された私たち一同、嗚咽の夜であった。

 岩国に帰宅して、私たち姉妹は広島の特殊爆弾を知った。天地を業火で溶かした惨状を知った。家の病院も被爆者で溢れ、病室に入りきれない多くの傷ついた人々が廊下にまで寝かされて、その隙間を白衣の父が走り回って、慌しく処置を施していたのを知った。

「あの時」特攻隊の人々が、私たち姉妹に対して九州築城に来て欲しいと望んで下さらなかったら……。
 軍国少女で学徒動員の毎日、私は被服廠のミシン工場の作業に一日も休んだことはなかった。いつのもように私が作業場に行こうとしていたら、朝八時十五分、原爆の落とされた時間は、広島の紙屋町あたり、間違いなく電車の中であった。
 まさに爆心地である。
 私は「あの時」生かされたのだ……。
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