「4枚小説」作品『一番桜』


『一番桜』
琴乃
「あとひとつ峠を越えれば、愛凛(アイリーン)姉さんに、やっと会えるわ」
 中国××省の春は遅く、四月を過ぎてもまだ、この峠に桜の開花は見られない。
「姉さんの桜は、大丈夫かしら」
 有名な故宮殿の樹木を代々に渡って管理してきたのが、姉さんの嫁ぎ先「孫家」である。その長男に見初められたのも、姉さんが村一番の美人というだけでなく、木や花に注ぐ愛情の深さが決め手になったのだ。

「鈴麗(リンレイ)、よく来てくれたわね。父さんや母さんは、元気?」
 朝早く、村を出た鈴麗が、町なかにある故宮殿へたどり着いた時は、もう夕方だった。
「ええ。それより、姉さん、休んでなきゃだめだよ。もともと、体が弱いのに」
 愛凛は、臨月のお腹を抱えながら、まだ額に汗して働いていた。痩せて顔色も良くないことに、鈴麗はびっくりする。
「今が、大切な時期なの。もうすぐ咲き始めるから」
 愛凛が指差す丘の上に、立派な木が見えた。
「あれが、一番桜?」
 この地を治めている皇帝陛下から、その名を与えられ、愛でられている特別な存在としての桜を、鈴麗は生まれて初めて見た。
「私が世話をしないと、寂しがるの」
「でも、働き過ぎだと思う。姉さんが嫁いで五年の間、まったく里帰りさせてもらえないし、初めてのお産でも帰れないって言うから、私が姉さんの代わりに働きに来たのよ」

 来て、まだ数日しか経っていないが、鈴麗は、「孫家」の人使いの荒さにぐったりとなっている。今夜も疲れて熟睡していたが、闇を切り裂くような悲鳴を夢の中で聞いたような気がして、布団から飛び起きた。
「もしかして、姉さんの声?」
 鈴麗が本宅にある愛凛の部屋へ駆けつけると、義兄と産婆が扉の前で話をしていた。
「だんな様。これでは、若奥様の身体が持ちません。どちらかしか、助かりませんが」
「……」
 鈴麗は黙っている義兄に詰め寄った。
「義兄さん、お願いします。姉を助けてください」
 泣きながら訴えたが、彼は命じた。
「あいつはどうなってもいいから、赤子を助けろ。この家の跡継ぎなんだ」
 産婆は頷いて室内に戻る。そしてすぐに、産声があがった。
「だんな様。無事、ご長男の誕生です!」
 産婆の叫びに、義兄が歓声を発して部屋に入った。後をついて飛び込んだ鈴麗は、息を呑む。そこに見たのは、血の海の中で変わり果てた愛凛の姿だった。

 夜明け前、鈴麗は愛凛の亡骸を台車に乗せ、来たときの峠道を帰って行った。
「姉さん、私が何もしてやれなくてごめんね」
 孫家は、故宮殿の木々の世話に忙しく、葬儀どころではないと冷たく言い放ったのだ。
 次の日、鈴麗や両親、多くの村人に囲まれて、愛凛はふるさとの丘の上に埋葬された。

 ようやく全国が満開の桜で埋め尽くされた頃、町の人々は異変に気付いた。
「なぜ、故宮殿の一番桜が今年は咲かない?」
 それからは、季節の移り変わりとともに、故宮殿の樹木や花々も生命力を失っていった。
 翌年も、その次の年も状況は悪くなるばかり。ついに皇帝の怒りをかった「孫家」は、故宮殿の仕事を剥奪され、すぐに没落した。

 数年後、愛凛の墓が満開の桜で覆われるようになり、その美しさは国中に知れ渡った。
「姉さん。陛下がね、ここに咲く桜こそが新たな“一番桜”だと宣言してくださったのよ」
 鈴麗は、手を合わせて語りかけた。
 こうして愛凛の桜は、春が巡りくるたびに、故郷の名を全国に轟かせ続けている。




※この作品は、「事実」を前提とせず、あくまでも「創作」として描いた作品です。


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