『みどりの館』
まあさ
 梅雨曇りの夕暮れどき、祥子は役所の仕事を終え、駅近くの自宅に帰りついた。木々に囲まれたこの古民家には、六角形の洋館が建て増してある。全体に蔦のからまった様子を夫の有馬は『みどりの館』と呼ぶ。
 玄関に入ると、かかとの高いパンプスが揃えてある。そういえばピアニストの有馬が、今日はソプラノ歌手の青羅と次のステージの音合わせをすると言っていた。
 玄関をあがった廊下の右手にある六角形の洋間から歌とピアノの音が聞こえてくる。
 祥子は廊下の反対側の座敷で着替えをしながら、青羅の声に聴き惚れていた。
 その声質は青羅の肌を想わせる。
 祥子と同じ三十歳代半ばでありながら、すべすべとしていて、まるでアップルマンゴーのように筋もなく、酸味もなく、ねっとりとなめらかで甘い香りがたつ。
 ステージの姿が思い浮かぶ。青羅が悠然とドレスの裾を翻してお辞儀をし、すらりとした有馬はにこやかに客席を見回す。息の合ったデュエットへの惜しみない拍手……。
 突然、畳の上に、赤黒いゴム製の細長いブラシのようなものが這い出てきた。にわかに祥子は、かたわらの柱に掛けてある布団叩きを手に取って追いかけた。ばしっ、ばしっと畳を叩きつける。何度も何度も叩きつづける。
 洋間から有馬が出てきた。
「またムカデ、出たんか?」
「いっちょう上がり」
 祥子は厄介物を手早く新聞紙に包んだ。
「祥子って、たくましい」
 有馬のうしろから青羅も顔を出したので、祥子は二人に手のひらを向けた。
「お邪魔したわね、つづけて」

 祥子と青羅は、高校時代からの親友だ。
 女子大に入った祥子は、音楽大へ進学した青羅の演奏会をよく手伝っていた。そこで知り合った青羅の音楽仲間、有馬を愛するようになる。そして青羅が留学しているあいだに結婚にまでこぎつけたのであった。
 そのころ祥子が祖母から相続した、このレトロな和洋折衷住宅を有馬は一目で気に入り、ピアノ連れで引っ越してきたのだ。

 梅雨明けの土曜日、祥子は十年目の結婚記念日に、サプライズ・ディナーを用意した。手の込んだ料理に極上ワイン、テーブルには白い卓布をかけ、ロウソクも準備している。
 しかし有馬はなかなか帰って来ない。
 今日の帰りは早いはず。ホールの打ち合わせだけと聞いている……青羅のリサイタルのためだっけ……視界の端にムカデが動いた。
 祥子は立ち上がると窓を閉め、殺虫剤を手にとり、部屋のすみずみに撒いた。テーブルの上がもうもうとした白煙で、料理もロウソクも何も見えない。化学薬品の臭いにむせそうになり、廊下へ出る。廊下にも撒き、洋間の扉を開け、ピアノの周りにも撒き散らした。出が悪くなると、新しい殺虫剤の封を切る。指先が痛くなったら、左手に代えて撒いた。両手で撒いた。ピアノも楽譜も、どろどろだ。目を開けていられなくなったところで扉を閉め、裸足のまま玄関から跳び出す。
 そして玄関脇の縁石にうずくまった。
「あれ、祥子やないか」
 祥子が顔をあげると、あたりは薄暗くなっていて、有馬のすがたが玄関灯を受けて浮かびあがる。
「えらい臭いやな……」
 有馬は、持っていた大きなバケツのような荷物を祥子に押しつけると家に入っていき、窓という窓を開け放った。すぐに戻ってきて、祥子の顔をのぞきこんだ。
 祥子は両手いっぱいに抱えた、おびただしい数のバラの花束が放つ薫りに、むせ返りそうになっている。
「十年間、ぼくを支えてくれて、ありがと」
「こっちの匂いのほうが、嬉しい」
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