『さよなら、みどりの館』
FUZUKI
 私の名は青羅。人は皆、私をDIVA(ディーヴァ=歌姫)と呼ぶ。私が歌えば、皆ひざまずいて、たぐいまれなる美声に聞き惚れ、天に与えられた美貌を褒めそやす。
 ピアニストの有馬も、もちろん私の熱狂的なファン。ルックスがちょっと私好みだったから、専属にしてたんだけど、彼ときたら、十年前、私がミラノに留学している間に、こそこそと結婚なんてしてたのよ。しかも、私の元同級生のジミな女、祥子と。
 単なる事務員の祥子。取り柄と言えば料理の腕ぐらいかしら。演奏会のときに時々、私の手伝いをしていたのだけど、有馬を誘惑するなんて、全く油断も隙もありませんこと。
 まあ、いいわ。有馬なんて、私の取り巻きの一人にすぎない。そう思って、私は寛大に許しましたの。それにしても、いくら好みの家つきだからといって、よりによって祥子なんかとねぇ。それに、その家というのが、和洋折衷で、何だか変てこな建物なの。
 ちょっとぶち切れた、あ、いえ、怒りを覚えた私は、練習のためと称して、折を見ては彼のピアノが置いてある建て増しの洋館「みどりの館」を訪ねるようにしましたわ。
 そして、私は、さりげなく有馬の肩に手をかけ、腰に手をあて、さらに、意味ありげに視線を送る……。
 ふふふ、案の定、自分に自信のない祥子は、やすやすと引っかかった。みどりの館を訪れるたびに、祥子の表情が曇っていくのが手に取るようにわかったわ。
 そして、髪振り乱した祥子はどんどん変になっていって、ある日など、「ムカデが出た~!」って叫びながら、布団たたきを振り回して、血相変えて追いかけていたの。その姿ときたら、まるで夜叉みたい。
 いくら何でも有馬もこれで目が覚めるでしょうと思ったら……、な、何と、彼ときたら、「悪いけど、これからうちに来るのやめてくれへんかな? かみさんが、青羅とぼくに何かあるんやないかって疑ってるみたいなんや」ですって!
 とんでもない。祥子の料理のせいで中年太りしてきた有馬に、今さら興味なんてあるもんですか! これは単なるお遊びよ。
 
 そして、この間の土曜日のこと、私の夕食の誘いを振り切って、彼は、結婚記念日のプレゼントのバラの花束を抱えて、いそいそと帰っていったわ。
 そしたら、彼が帰ってみたら、またムカデが出たと言って、殺虫剤二本使い切っていたと言うじゃないの。全く、あの女どうかしている……。
「何とかせんと、殺虫剤でピアノをダメにされてしまうがな。なあ青羅、これから練習はスタジオでしようや」
 その上、なんとこうまで抜かした、あ、いえ、失礼、おっしゃったのよ。
「ぼくは、祥子とみどりの館を心から愛してるんや。彼女、料理もうまいしな」
 料理ですって? ああ、何てくだらないのッ! もうこの夫婦に振り回されるのはやめにするわ。
 そして、さらに彼はこう言いつのった。
「あ、それから、もう一つ、前から言いたかったんやけど、青羅のブログの『私はDIVA』ってタイトル、変えた方がええで。何というか、ちょっとイタイから」
 こ、こんなハズカシメに、私は負けるものですか! 新しいピアニストを探すわ。
 さよなら、みどりの館。もう二度と行くことはない。あんなボロボロの館、私には似合わないもの。だって私はDIVA……。
 
 さてと、祥子の家の古臭いにおいがついてるかもしれないから、楽譜入れに使ってたバッグを干すわ。あ、これ? バーキンですの。軽く車一台買えるかしら? ホホホ!
 あらっ、何か赤黒いものがバッグの中で動いたような……。ま、まさか、ムカデ?
 キャ~! (バタン!)

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