『ようこそ、みどりの館』
え~ま
「げ! なんや、このにおい」
 ピアニストの有馬は、扉を開けると叫び声をあげた。
「また、ムカデが出たんよ」
 妻の祥子は、ピアノを睨みつけながら叫んでいる夫を、眼の片隅でとらえた。
「今は冬や。この季節、ムカデは出ないやろ。それに、殺虫剤を撒くんやったら、僕の商売道具のピアノには、カバーかけとけよ」
「……」

 僕は、近頃の祥子にイライラする。
 祥子は、ソプラノ歌手のセイラと僕の仲を疑っている。セイラが、我が家に来たあとは、決まってムカデが出たと大騒ぎし、殺虫剤のお出ましや。
 先週、セイラとステージの音合わせをしている時に、祥子は部屋に入ってきた。ピアノを弾いているときには、邪魔をするなと言ってあるのに……。それにしても、セイラがちらっと祥子を見て、親しげに僕の肩に手を掛けたのには、参ったな。伴奏の途中で、払うこともできなかった。
 十年前、僕は祥子と結婚し、彼女が祖母から相続した六角形の洋館に移り住んだ。
 この館は夏になると、ムカデが出る。僕と祥子で、布団たたきや箒で追いかけまわすのも再々だ。その時の、彼女の真剣なまなざしと夜叉のような取り乱し方を、僕はちらっと見るんだ。なぜって、髪を振り乱した、キュートな表情の祥子が好きだから。
 ムカデには困るが、蔦の絡まったレトロな洋館はすてきだ。ここで弾くピアノは、時間を忘れさせてくれる。僕は、『みどりの館』と呼んでいる。誤解されそうやな。この家に住みたかったから祥子と結婚したのと違うで。
 祥子とセイラは高校時代の親友で、僕とセイラは音大の同級生だ。演奏会の時、セイラを訪ねて来た祥子に、僕は一目ぼれしてしまった。
 丸顔で、前髪をまっすぐに切りそろえた日本人形のようだ。話すと、はっきりした自分の意見を持った人だった。
 セイラと僕は、大学時代に付き合っていた。セイラのルックスは、大学で一番やった。それだけでなくアリアを歌う声は、ピアニストの僕が聞いても心にしみる。ほれぼれする。声だけでなく、愁いを帯びた瞳に、皆が魅了されてしまう。僕も、取り込まれた一人や。セイラが伴奏を頼んできたときは、ご飯も喉に通らないほどうれしかった。
 でも、優しさなんかこれっぽっちもないとすぐに気づいたんや。約束した時間は、連絡なしにすっぽかすのは序の口やし、電車の入り口で、お年寄りを突き飛ばすように乗り込んでいったときは愕然とした。
 別れようとしたが、セイラの持つオーラに圧倒され出来ない。だから、卒業式にセイラから数年間留学すると聞いたときは、心の中で拍手喝采した。
 すぐに、祥子にプロポーズすると、祥子がはにかみながら『はい』とはっきりした返事をしてくれたのが、まるで昨日のことのように印象に残っている。
 
《ル・シャトー・ヴェール》
 有馬は、すこし後ずさりして、玄関前に掲げた看板の文字を読みあげた。
 祥子は、有馬の腕に手をからませ、甘えた声でささやく。
「フランス語で『みどりの館』。十年目の結婚記念日に、あなたが提案してくれたから、わたしは仕事を辞めて、この店を開く気になったのよ」
 洋館の一部を半年かけて改装し、レトロなカフェ・レストランにした。
「祥子の料理と僕のピアノ演奏。ふたりで、居心地のいいお店にしていこうね」
 みどりの館には、二度と、邪魔なムカデが出てくることはない。
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