『とどめ』
ポンサッコ
 宏美は、腑に落ちなかった。
 ワンルームマンションに暮らす若い女性の情景を描いた『やけ食い』が若手画家の登竜門である××賞に決まったと、主催団体から連絡が入ったのだ、信じられないことに。
 恋人はもちろん、東北にいる両親などは、喜びのあまり受話器越しに泣き出した。
 盛り上がる周囲をよそに、宏美は一緒に応募した同郷の絵描き仲間である由香に、「未完成の状態で出したのに、まさか受賞するとは思わなかった」と打ち明けた。だが、「考えすぎよ」と相手にしてもらえなかった。
 十畳を超えるカンバスに広がる『やけ食い』の世界は、すべて実物大である。部屋の中央に仁王立ちする下着姿の女が、目を血走らせて骨付き肉に食らいつく。長い髪を振り乱し、頬にはつけまつ毛が貼り付き、口元は大きくゆがんでいる。下着は肉汁と思しきシミが広がり、ゴキブリを踏みつける足元には、脱ぎかけの洋服、コンビニの袋、開いたままの求人雑誌、ペットボトルなどが散乱している。
 審査委員の言葉を借りれば、この作品はどこか不自然な日常を精緻な筆遣いで描き出し、消費社会の閉塞感と若い世代の絶望をみごとに表現しているという。だが、別の審査員からは、何かが足りない、その何かを探すことが今後の課題だと指摘された。
 何かが欠けている。でも、どうすれば……。
 授賞式が終わっても、宏美は自問し続けた。

 それから一か月後、『やけ食い』は中央美術館の企画展「ヲトメから肉食女子まで――画家の描く少女像の変遷」に出展が決まった。
受賞のご威光である。はたから見れば、駆け出しの画家には幸先良いスタートとなった。
 企画展が始まると、『やけ食い』は宏美のようなアラサー世代から、共感をもって迎えられた。更に、さる若手の論客がこの絵について、非正規雇用者の実情を象徴している、二十一世紀のプロレタリアンアートだと、どこかで発言したことで来館者が急増した。
 美術界では権威ある××賞だが、その受賞作がわずかな間に、これほど広く世間一般の注目を集めたことがあっただろうか。
 こうした状況を、マスメディアが見過ごすはずがない。ほどなく、この絵に共感する若者と彼らが抱える問題を取り上げた特集がテレビで放映され、雑誌や全国紙も取材に来た。
 またたく間に、宏美は画壇のホープに祭り上げられた。画商からの注文も引けを切らない。あわただしい日々に流されて、宏美は審査員に指摘された「足りない何か」を逡巡する余裕はおろか、寝食の時間を削って創作に打ち込むことを余儀なくされた。
「今の君は、やけ食い女そのものだね」
 そんな捨て台詞を残して、恋人は去って行った。不規則な生活で、宏美の肌は荒れ、部屋の鉢植えも枯れている。それでも、新進気鋭の画家として、前を進むしかないのだった。

 三か月の会期も終盤に入ったある日、事件が起きる。見学者が、カンバスに傷をつけたというのだ。修復できるか見に来てほしいと美術館から連絡が入り、宏美は駆けつけた。
 平謝りする館長に伴われて特別室に入るや、宏美はカンバスにくぎ付けになった。
 やけ食い女の首に、切りつけられた痕。とどめを刺されているではないか。
「警備員が目を離したすきに、マスクをした女が東北なまりで叫びながら、パレットナイフで首もとに切りつけたのです」
 館長の釈明に、宏美は由香の顔を思い浮かべ、無言で絵の前で立ち尽くした。
 十分ほど経っただろうか。しびれを切らした館長が、おそるおそる切り出した。
「先生、修復はできそうですか?」
 宏美はわれに返った。そして、以前にまして力強い光を放つやけ食い女の瞳を見つめながら、きっぱりと言い切るのだった。
「必要ありません。これで完成しましたから」
clipimg