『アレ』
ミシェル
 今夜も篠突く雨だった。バイトが終わったのは深夜を優に回っていた。恵介は赤く腫れ上がった右の頬を重い右手で庇いながら「くそっ」と吐き捨てた。
「空け者だよ、アイツはな」
「相手も酔った勢いってやつよ」
 その客は新調したてのスーツに大量の珈琲を溢され、酔いに任せて2~3発げんこつを見舞ったのだった。
「謝りもしなけれりゃ頭も下げねぇ。ったくコイツはどうしょうもねぇな」
 雇われ店長がバイトの連中の前で悪口雑言を浴びせかけた。接客が苦手な上に腱鞘炎を患っている右手は使いものにならない程に酷く鈍っていた。外へ飛び出すと、激しく冷たい雨が殴られた頬にやけに心地良かった。ボロボロの自分を慈しむように、一寸作り笑いをしてみる。そしていつものコンビニに立ち寄る。一週間で使い切ってしまう「アレ」を手に入れる為に。ついでに夕餉のおでんも。三六五日殆どこれで腹を満たした。店員が好奇な目でじっと見る。週に3~4日程度の不定期バイトだから、日当も一万円を切る。諸諸を差し引くと手元に銭は残らなかった。
 重い足取りで立て付けの悪いドアに鍵を差す。冷たく薄汚れた部屋にポツンと置かれたちゃぶ台にすがるようにして腰を下ろした。溜息混じりに崩れ落ちそうなおでんの具を息もつかず一気に腹に納める。と、重りのついた死体のようにどんどん暗い穴に吸い込まれていった。目覚めるともう「アレ」を握っていた。ボーッとしたまま昨夜の自分の顔をガラス窓に映す。まだ三十路前だというのに、髪は抜け落ち頬はゲッソリとこけ、異様に血走った眼光が虚ろに空を泳いでいる。骨張った背中を二つ折りにして、山のように溜め込んだ「アレ」のゴミを出す。
「あの男さぁ、一人暮らしにしてはゴミ多いよね」
「あんなに沢山のゴミ袋に一体何が入ってんのかしら」
 近所の主婦たちが不気味がって噂をし、袋の中を覗いたこともあるくらいだった。
 恵介が「アレ」を握ると視界は一変した。五感が静止する。と同時に体内の拍動が激しさを増し、憑かれたように走り始めるのだった。そして奇声や唸り声を発し、それが外部にまで漏れることも日常的となっていた。そんな時には決まって頭を搔き毟った。髪が抜けるのはこんな行為を日に何度となく繰り返すからで、頭皮に傷が付き爪に血が滲むのを見ると、ある種の快感に浸れるのだった。そしてもっともっと忘我の境に登りつめる為に、恵介は自分の「アレ」を弄んだ。呼吸が止まってしまう程に何度も何度も。
「もう少し、もう少しだ」
 孤独な日々に駄目押しでもするかのように独り言を繰り返した。
 あの時から、かれこれ十年の月日が経とうとしていた。余儀無い事情で高校を退学した恵介は、「コレ」で身を立てるのだと散々親を困らせた挙句に、身一つで家を飛び出していた。それ以来、一切の縁者との繋がりを断ち、見分けもつかぬ程に形相も変貌していったのだった。
 挑むのはこれで七回目だった。今回は以前にも増して思い入れが強く、死をも辞さない覚悟でいた。そして希望と失望の狭間で不安に苛まれながら、ジリジリと時は過ぎゆく。恵介は飲めない酒を呷った。意識が朦朧とする中でそれはあっけなく終わった。思いもかけぬ審判だった。
「そうですか、分かりました」
 消え入るような声で電源を切った。
「ちくしょう。又も逃げたか」
 夢かうつつか、ゲームオーバー。
「水、水、…」
 やっとの思いで立ち上がり薬に手をかけたその時だった。夜の静寂をぬって着信音が鳴り響いたのだ。
「もしもし、草川さんですか?第百五三回の芦川賞、厳正なる審査の結果あなたに決定致しました。おめでとうございます」
 耳を疑った。その声がまるで耳鳴りのように響いた。「アレ」、つまり「鉛筆」が俺の命を救ったのだった。
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