「4枚小説」作品『匂いは怖い』


『匂いは怖い』
かりん
「もっと強く抱いて―っ」
 真知子は、背中にまわった手の感触と整髪料の臭いに吐き気がした。しかし、ダンス教師は再び大声で、パートナーの真鍋を叱咤激励した。
「もっとピッタリくっついて―」

 真知子は、この真鍋と組むのが嫌だった。だから、できるだけくっつかないようにしていた。背中を冷たい汗が流れて、もうこれ以上我慢できないと思ったとき、曲が止んだ。真知子はほっとしたと同時に、もうダンス教室をやめようと思った。
 真知子がダンス教室に通い始めて一ヶ月が経ち、パートナーと組んで踊る練習が始まった。教室の男性の中では組みたくないと思っていた真鍋と組むことになって、おまけに彼の整髪料の臭いが嫌で、最初から冷や汗をかくことになったのだ。真知子は神経質ではないけれど、「匂い」には敏感だった。
 真知子と夫は、共に四十五歳の公務員。夫が半年前に社交ダンスを始めて、生き生きして楽しそうだったので、真知子もやりたくなった。でも、夫と同じ教室で習うより、ほかの教室でレッスンを受けて、ある程度上手くなったら二人で一緒にレッスンを受けようと思って、夫に内緒で習い始めたのだ。

 一度は、レッスンをやめようと思った真知子だったが、前納で支払った半年分の月謝がもったいなくて、なんとか続けようと思い直すことにする。パートナーの真鍋とは、レッスンの合間に少しずつ話すようになっていった。相変わらず整髪料の臭いは嫌だったが、話しているうちに真鍋が理知的で紳士的で、とても感じのいい男性であることがわかってきた。出版社に勤める真鍋は、五歳年上の五十歳で、奥様もどこかでダンスを習っているらしい。
 そうこうしているうちに真知子は、夫のダンスパートナーはどんな女性だろうと、興味を持ち始めるようになった。

 夫のダンス教室一年目の発表会で、真知子はその女性に会った。平凡な女性である。だが……その香水のニオイには覚えがあった。
 最近、夫のワイシャツに着き始めたニオイで、夫に問い詰めてみようと思っていた矢先だった。妻である私の前で、夫と馴れ馴れしくする度胸に、この女は絶対、夫と不倫していると、真知子は確信した。

 夫の次のレッスンの日、真知子は教室から出てきた二人のあとをつける。行き先は駅前のシティホテルだった。ロビーの柱の陰から、二人だけが乗ったエレベーターが八階で止まったのを確認して、真知子もエレベーターで同じ階まで上がった。だが、長く続く廊下を見ると、二人が何号室に入ったのか、わかるわけはないと項垂れた。次のエレベーターが八階に止まる音がした。これに乗って帰ろうと思ったとき、開いた扉から、匂いがした。あっ、この匂い……。
 真鍋が立っていた。
「なんであなたがここに?」
 
 夫に裏切られた真知子と、妻に裏切られた真鍋。エレベーターの中でお互い、どちらからともなくダンスのポーズを組んだ。不思議なことに真知子はそのとき、真鍋の匂いを素敵だと感じた。見つめ合ってワンステップ。ツーステップで感じる相手の胸の鼓動。スリーステップで一つになるボディ。その瞬間、裏切られた者の怒りが二人の体に火をつけた。
 エレベーターが八階から降りてきて止まり、扉が開く。ロビーへ出た二人は、フロントに交渉し、部屋の鍵をひったくるように受け取って再びエレベーターで上層の客室階へ。部屋へ飛び込んだ二人は上着を脱ぐのももどかしく、そのまま一つのベッドへ倒れこんだ。
「もっと激しく抱いてーっ!」
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