『何てったってアイドル』
ヒロ
 最近、夫は金曜日あたりになると早くに帰宅し、夕食後、慌ただしく外出する。
(何だか変だ、どうも怪しい)
 市子は夫に不信感を持ち始めた。
 長谷彰と、三歳年上の市子は二十三年前、平凡なお見合い結婚をした。
 もうすぐ五十歳になる彰は、ヤリ手の同期とは格段の差が付き、出世街道とは遠く離れた位置にいる。何事においても不器用で、清濁併せ飲む、というような器用さはない。
 いつの間にかブクブクと太りだし、以前なら少しは愛嬌もあったのに、今では家で「風呂」「メシ」「寝る」としか言わなくなった。
 ところが、ここ三か月ぐらい、金曜日あたりの夜になると、大きな紙袋を下げ、いそいそと外出する。
 結婚して二十年も過ぎると、その都度、市子は「何処へ?」とも聞かなくなった。見くびっていたのか、信じ切っているのか、無関心なのか、そして、それがいけなかったのか。
(何だろう、浮気でもしているのかしら?)
 どう考えても最近、夫の様子は怪しい。

 彰は、妻が無関心なのが、今は却って有難い。今日は、花の金曜日。浮き立つ思いで都心の目的地に向かい、とある建物の地下へと軽やかな足取りで下りて行く。受付で会員証を見せ、勝手知ったる部屋へと消えた。
 三十分ほどして部屋から出てきた彰のその姿、顔はまるでオテモヤンである。頭に水玉模様の大きなリボン。超ミニのワンピースと、足元はルーズソックスに厚底サンダル。その筋の店で、こんな衣装はすぐ揃う。
 数年前、《セーラー服おじさん》なる者をテレビで見た時、(けったいな奴やなぁ)と思ったのに、まさか、俺がハマルとは。そして今では、変身した自分の全身を眺めるだけでは満足できず、駅前広場で、AKBの『ヘビーローテーション』なんかを流し、歌って踊れるまでになった。
 観客が多いほど気分は高揚し、軽やかに、楽しげに歌い、踊る。贅肉がタプンタプンと上下左右に揺れ動き、その全身からは汗と愛嬌がほとばしる。しかし、十分も経つと息が上がりヘトヘトだ。肩で息をしだした頃、「可愛い~」と黄色い声が飛ぶ。
 三か月前、これを始めた頃は「キモイ、変態!」と言われた。それが今では、「キモ可愛い」から「キャー可愛い」へと変化した。
 どうだい、俺の裏の顔、家も職場のヤツらも誰も知らないだろう。
 俺はなぁ、人気者なんだぞ。
 俺は、他人の手柄を横取りなんてしない。
 責任を取らない上司なんかくそ喰らえだ!
 家でも職場でも、俺を気に掛けるヤツなんて誰もいない。そんな俺でも、ここでは人気者なんだぞ。
 今夜の駅前ステージは、いつも以上にノリがいい。手拍子が徐々に大きくなり、俺の熱狂的ファンがアンコールを求めてくる。
 最後は、やはり俺が若かりし頃好きだった、キョンキョンの『何てったってアイドル』で締めようか……。汗をぬぐい、再びマイクを取った彰を、人垣の向こうからテレビ局のカメラが狙っている。益々、彰はノリにノル。

 先月、夫の跡をつけてから市子は、あの場所に何回も行ってみた。彰は観客にまぎれた市子に気づかない。初めて夫のあの姿を見た時の驚きは例えようもなく、市子は何としても止めさせたかった。しかし「駅前ライブ」と称し、ニュース番組のエンディングに数秒間映った彰を見た時、スーッと市子の思いに変化が生じた。あんなに溌剌と楽しげな夫を、今は、あと少しだけ見て見ぬふりをしようかなと思い始めている。夫も、いつまでもバカをやってるはずが無い。
 ♪ 何てったって ア~イド~ル
 キッチンで市子が何気なく口ずさむ。その背後で、彰がゴクッと息を呑んだ。
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