『よんどころなき儀』
 森嶋清兵衛殿――――此の度よんどころなき儀により、金五十両を借用仕りたく候。返済違約の際は家屋敷を担保致し参らせ候。三月十日 藤本直亮───

 直亮は借用書をしたため、腰の短刀に親指を当て、滲み出した鮮血で拇印を押した。懐に収めて、腹に力を入れて立ち上がった。庭の古木の白梅が目に入る。数年前に病で亡くなった父上も、祖父も、生涯、愛おしんでおられた老梅だ。樹齢百年を超え、ごつごつした瘤を幾つも持ち蒼白い苔を幹に沿わせて、古武士のようだった。四十二歳の直亮はおのれの代でこの白梅とも別れることになるか、と身震いがした。諸岡藩の家老付侍の直亮は三十人扶持で、貧しくもないが、豊かすぎることもない。五十両の返済の目途はないが、清兵衛は引き受けてくれるだろう。
 直亮は三年前の墓参の帰りに、東山の山道で数人のならず者に囲まれて危なかった清兵衛を、助けたことがある。直亮の太刀さばきに、賊は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。清兵衛は堺の菜種油の商人で、近江に販路を広げての帰りに狙われたのだ。平身低頭して礼を言う清兵衛は、直亮より十歳ほど年上で、卑屈さを見せず、胆の据わったひとかどの人物のようだった。
 爾来、二人は馴染み、旧知のような交流が続いている。「ご妻女に」と珍しい唐来物を直亮の屋敷に届けてくれる事もある。こんな大金の借用は本意ではないがやむを得ない。

「出かけるぞ」
 妻が玄関口にすぐ出てきて、三つ指をつく。下女のおくみが直亮の草履の紐を結んだ。
「おくみ、心配するでない」
 おくみは下を向いたままこくりと頷いたが、小さな体一杯に不安が漂っているのが哀れだ。
 十日ほど前、おくみが八歳の弟の幸助と小さな声で深刻に話しているのを、直亮は偶然、耳にしてしまった。家に毎日のように取り立て屋が来て、気の弱い両親は土下座ばかりしているという。それも、京の呉服屋、小嶋屋で丁稚奉公している十八歳の兄、嘉助の借財が積み重なっているからとのこと。理不尽な話をよく聞くと、上得意先に届ける呉服を嘉助は道中襲われて、奪われたらしい。その弁済を迫って親元まで取り立て屋が来ているのだ。直亮は事情を知ったからには、身を乗り出さずにはいられなかった。小嶋屋に有無を言わせまいぞ。その金子だった。
 赴いたところ、清兵衛は留守で、恐縮する内儀に直亮は文を預けた。

 三日後、清兵衛が直亮を訪ねて来た。
「よんどころなき儀とはなんのことでございますか」
「大義名分はござらぬ」
「直亮様のご依頼とあらば、なにもお聞きせずに用立てるのがご恩に報いる道でござるが、家屋敷まで担保とは只事とは思えませぬ。武具でも備えなさるおつもりか」
 清兵衛にそこまで言われては、直亮も事情を正直に話すしかなかった。
「直亮様、申し訳ござりませぬ、ご堪忍下され」
「清兵衛殿、何としても叶いませぬか」
「叶いませぬ、それに……」
「それに、なんでござる」
「くだんの件は、もう片がついておりまする」
 清兵衛は直亮の目の前で借用書を破った。
「あッ!」
「私を襲った三年前のならず者を調べさせていたところ、実は、小嶋屋に繋がっていたことが分かりました。その小嶋屋も裏では勘定方の某にたかられていまして……」
「よんどころなかったのか」
「はい。両者併せて、数日中にご沙汰がくだされるでしょう。もう、小嶋屋が取り立てを迫ってくることはありませぬ」
「良かった」
「それにしても、直亮様までが、よんどころなき儀とは、気をもませられましたぞ」
 清兵衛のしかめ面に直亮は頭を掻いた。老梅の香が、そんな二人を優しく包み込む。
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