『紅い盃』
伊知悟
「あなた、まだ波が高いから気を付けて」
 台風が過ぎた翌朝、海辺を歩く作治は、妻ヨシ子の声が聞こえてくるような気がする。
 定年後、東シナ海が見渡せる南九州に移り住み、やっと二人の時間を楽しんでいたのに、去年の夏、ヨシ子は病に倒れるとあっけなく逝ってしまった。
 打ち上げられた夥しい漂流物の中に、作治は欠けた紅いガラスの盃を見つける。
「今はがらくたに見えても、東シナ海に散って行った夢とロマンが秘められているのよ」
 この海岸で、ガラスや陶器のかけらを拾い集めては、ヨシ子が嬉しそうに言っていた。
 ヨシ子のいない寂しさを埋めるため、作治も漂流物の収集をはじめた。
 流木に腰かけ、いつもヨシ子がしていたように、作治はいま拾ったばかりの切子文様の盃に耳をあててみる。 
「さぁ、聞かせておくれ。お前はどんな運命をたどってきたんだい」

 私の名は高子と申します。薩摩ガラスの職人・亀太郎の娘でございます。父と職人たちが、西洋の技術から学び、何度も試作を繰り返し出来上がった薩摩切子は、誰もの心を奪う見事な美しさです。特に紅色ガラスは、異人たちの間で、ひときわ人気がございました。
 トルコ帝国からの視察団が父のガラス工場を訪れた日、私はアイラ様と出会う運命だったのでしょう。視察の途中、職人がまだ熱いガラスをアイラ様の腕にあて、ひどい火傷を負わせてしまいました。父は工場に居合わせた私に、手当てをするよう命じたのです。 
 私はアイラ様に薬草を塗りながら、異国の青年の端正な顔立ちに見とれてしまいました。
 しばらく後、アイラ様は火傷の手当てのお礼にと、私の家を訪ねて来られました。
 十七の私は、片言の日本語で私への想いを語るアイラ様に魅かれてゆきます。
 一人娘の私とアイラ様との恋を、父が許してくれるはずもなく、二人は人目を忍んで逢っておりました。
 一年が過ぎ、アイラ様のお国に帰る日が近づきますが、私たちは離れられません。
 アイラ様が出航の夜、私は父と母が寝静まったのを確かめると、裏口に向かいました。
「高子、待ちなさい」
 母は、私が家を出るのを察していたのでしょう。引き止められるのだと思いました。
「これを持って行きなさい」
 母から手渡された木箱には、父が精魂を込めて作った「紅い盃」が二つ入っていました。
「高子が嫁ぐ日のためにとお父様が……」
 別れの辛さに母は言葉が続けられません。
「お母様、お許しください」

 港を離れた船の甲板で月と星だけに見守られ、アイラ様と私は「紅い盃」を二つ並べ、祝言を挙げました。一対の盃を分かち合い、一生添い遂げる約束をいたしました。
 しかし、親を苦しめ身勝手な幸せを選んだ罰でしょうか。お国の事情で帰路を急ぐ船は、雲の動きを軽んじてしまいました。琉球王国を過ぎて間もなく、大きな嵐に見舞われたのでございます。 激しさを増す嵐に、船体は大きく傾きました。
 アイラ様は最後まで私を離さないように抱きしめてくださいましたが、海の底へと沈んでゆく船に身を巻き込まれ、離れ離れに……。

 海岸から戻ると作治は、裏庭の納屋に直行し、ヨシ子が大事に木箱に入れていた紅いガラスの盃を取り出した。あの二人が渡れなかった東シナ海が見える縁側に、作治が今拾ったばかりの盃と並べる。
 二つの紅い盃は、元の姿をとどめてはいないが、寄り添い、日の光にきらめいている。
「ここで、再び巡り会えて、よかったな」
 作治は、ヨシ子が今、自分の横に立って一緒に微笑んでくれているように感じた。
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