「4枚小説」作品『逃げたのは』


『逃げたのは』
てる
「どうにもこうにもやってられんよ」
 伏見がつぶやくと、同世代の五十代とおぼしき女将が枝豆をカウンターに出しながら、「何がですか」と話に応じる。
「だから、何もかもさ」
 伏見は愛敬のある、お多福のような女将の顔をじろりと眺めた。他に客もなく、女将一人が切り盛りしている居酒屋だから、初めて入った店ではあるが、身の上話をしても構わないだろうと、伏見は話してみる気になった。
 去年の十二月のことだ。
 女房がふらっと出ていったきり帰って来ないんだよ。あいつの行きそうなところは隈無く探したんだけど見つからなかった。やもめ暮らしを一年も続けてると味気なくてさ。どうにもこうにもやってられんって訳よ……。
「思い当たる節はないんですか」
「いなくなった日の朝も、いつもといっしょだったし」
 伏見は、去年の四月にスマホで撮影した妻の写真を見せた。
「あら、かわいい奥さんだこと」
「そうだろう? 去年の三月に結婚したとこなんだ。二十も年下だから大切にしていたんだがな」
「どうして知り合ったんですか?」
「彼女が夜に酔っぱらいにからまれているときに、助けてやったんだよ。それがきっかけかな」
「お客さん、強いんですね」
「たまたま、相手が弱かっただけで」
「夫婦仲はよかったんですか」
「まあね。彼女は満足していると思っていた」
「お客さんは、酒癖が悪いのかしら」
「いや、いたって良い方だ。家で飲んでも暴力はふるわないし、騒ぎもしない。おまけに、浮気もゼッタイしないしな」
「じゃあ、何が不満だったのでしょうね」
「さっぱりわからん。やはり、世代が違うとイヤだったのかな? けど、その前の女房は五歳くらい下でも出て行ったな」
「お客さん、二回も結婚したんですか?」
「いや、四回だ」
「すごいですね。もてるんですね」
「すごくないよ。みんな、出ていくんだ。ふらっと。理由もなく。わけがわかんなくてさ」
 日本酒をちびりちびりと嘗めるように、伏見は杯を傾ける。
 煮込んでいるおでんを伏見に出してやりながら女将は考える。苦み走った中年で、声も低くて渋い。金もありそうだ。ナイスミドルってとこよね。おまけにけんかも強そうだし、もてるのもわかるわ。けど、なぜ、みんな出ていっちゃうんだろう? 
「いいねえ。この時期、体が温まるものが一番だなあ。この大根も味がしみていて最高だよ。厚揚げもたまらん」
「家で待ってる人もいないんだから、どんどん飲んで下さいね。私も頂いていいかしら」
「いいよ、じゃんじゃん行こう」
 二人は、すっかり意気投合し、気分もよくなってきた。若い頃に流行った歌を、肩を組みながら大声で歌う。
「私、こんなに楽しいの、久しぶり」
「俺もだ。逃げた女房なんて糞食らえ!」
 そうこうしているうちに、伏見は酔いつぶれてカウンターに突っ伏してしまった。

 あらあら、困ったわねえ。
 女将は毛布をそっとかけてやった。そのとき、伏見の尻のあたりにふさふさした尻尾が見えた。
「な~んだ。奥さんたちの逃げたわけがわかったわ。酔っぱらうと本性が出るのね。自分では気がついていないんだ」
 女将はのれんを店内に入れ、店を閉じた。このお客さん、まだまだ未熟だわ。私なんか、酔っぱっらても、そうやすやすと本性は出さないけどね。そう言って、狸は自分の尻尾をソロリと撫でた。
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