『眠れぬ夜の胸騒ぎ』
撫子
 柱時計は午前2時を示していたが、寝室の灯りはまだついていた。
 電気スタンドの光の下で、ベッドに横たわる一平は、先程から同じことを繰り返している。目をパチパチさせたり、枕元の雑誌を意味なくめくったり、そして、恨めしそうに時計を見やったり……。
「ああ、また今夜も眠れない」
 ため息とも欠伸ともつかない息を漏らして、何度目かの灯りを消し、寝がえりをうつ。
 昼間は運動のつもりで毎日、家の裏山の上に建つ稲荷神社の境内へお参りにでかける。
 だから今日も、身体は疲れているはずだった。

 だが、今夜はいつもと違い、何か胸騒ぎもしている。だから余計に、気持ちが昂って寝付けないのだが、いったい何が起こると言うのだ。泥棒に入られても盗られる物はないし、ましてや、人に憎しみを買うようなことはしていない。独り者のまま三十歳をとうに過ぎてしまった一平の生活は、ごくごく平凡なものだった。決まった仕事は持たず、親の遺産で気ままに暮らしているだけだ。
 胸騒ぎは単なる気のせいだと一平は思い直し、誰でもやったことのある《眠くなる方法》を試みることにした。頭の中で、羊を数えるやつである。

 広い大きな草原。そこに羊の群れがドカーンとやってきて、手前にある柵を次から次へと飛び越えていく。
 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……。
 ん? なんで羊なんだ。ライオンやクマではだめなのか?
 いや、こんなつまらないことを考える必要はない。一平は枕の上で首を振る。邪念を払って、また羊を数えることに専念する。
 七八匹、七九匹……やがて柵をとびこえる羊の速度はゆるやかとなり、徐々に眠気を覚えるようになってきた。
 その時だ。羊の群れの中に一匹、妙なやつが現れた。
 次に飛ぼうとする羊を後ろから思いっ切り突き飛ばし、柵の上で逆立ちしたかと思うと、三回転ひねりの宙返りをして見事に着地した。ニタッと笑って、こっちを見る。
「なんだ、お前は!」
 一平は思わず驚いて声を発した。
 そいつは、キツネだった。
「私は、稲荷神社の使いの者です。雨の日も晴れの日も毎度、けなげにお参りいただきありがとうございます。昨日のあなた様が、ちょうど一万人目の参拝者にあたられましたので、お礼に参った次第で」
「お礼?」
「そうです。お礼といいますのは、あなた様の願い事を一つ叶えて差し上げることです」
「ふーん」
「さあ、なにか願い事はありませんか」
「急に、そういわれてもなあ」
 大金持ち。健康。美人の嫁さん。高級外車。宝くじ。モテ顔。阪神タイガースの優勝……。
「さあどうぞ。毎日、熱心に参拝されているのですから、きっとあなた様には大切な願い事があるはずですよ。はやく言ってください。キツネは気が短いのだから。それとも権利を放棄しますか」
「エ~と。ア~と。くそっ、思い出せない。思い出させてくれ!」
 一平は思わず大声で叫ぶ。
「ハイ、わかりました」
「いや、違う、そうではない。やっとわかったぞ。思い出した! 私は眠りたかったのだ。眠らせてくれ。この不眠症を直してくれ」
「二つはダメです。いま、思い出したでしょ。一つ、ちゃんと叶えました。ハイおわり」
 そう言うと、キツネは頭の中からすぐに姿を消してしまった。
 がっかり。同時にドッと疲れが押し寄せる。

 一平は、いつの間にかぐっすりと眠っていた。
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