『砂時計』
SOLA
 薄暗いマンションの一室に、絶望に満ちた顔の男が住んでいる。男は幼い頃に母を亡くし、それがきっかけで家族が崩壊。今では孤独の身となっていた。
 そんな男の前に、摩訶不思議な老人が現れる。懐から、あるものを差し出してきた。
「砂時計は、いらんかね」
 男は無意識のうちに、それを受け取った。よく見ると砂瓶の上にプレートが貼ってある。
「そこに、遡りたい時間を彫るんじゃ。逆さにして砂を流せば、望んだ過去に戻ることができる。もし途中でイヤになり、帰ってきたくなったら砂時計を割ればいい。簡単だ」
 男はプレートに、母が通り魔に遭って死ぬ前日の日付を刻んだ。そして、ゆっくりと時計をひっくり返し、中の砂を落とし始めた。

 気付けば、男は布団の中で寝ていた。ちょっと身体が熱くてだるい。そうだ。母が亡くなる前日、五歳のボクは風邪で寝込んでいたんだ。それで、母の買い物について行くことが出来なかった。 記憶が鮮明に蘇る。外見は子供だが、中味は大人のままらしい。
 誰かが部屋に入ってきた。懐かしい匂い。やさしい掌がボクのおでこに乗っかる。
「まだ、熱があるわ。明日は、お留守番ね」
 母の声。もう、これだけで、泣きそうになる。ボクは慌てて首を振った。何としてでも元気になって、明日、母について行く。ボクが母を助けるんだ。
 翌日、血に染まった記憶のある水玉のワンピースを、やはり母は着ている。ボクは風邪が治ったと駄々をこね、一緒にバスに乗って駅前の商店街へ出た。もうすぐ、ここに通り魔が現われ、無差別に人を殺していくのだ。ボクは、無理やりに脇道へと母を誘った。
「商店街でまさか、こんな事件が起こるなんてーー」と、その日の夜、ニュースを見て母は他人事みたいに呟く。ボクは目的を無事に果たして喜んだ。

 その後、ボクは当り前のように母や父と過ごす。妹も生まれてくれた。こうして、何度も夢みた家族の思い出が一つずつ増えていく。その度にボクの心は満たされていった。
 しかし、ある夜。家に帰るのが遅くなったボクは、滅多に通らない脇道へ入った。すると、そこへ酔っぱらった車が突っ込んできた。
 跳ね飛ばされたボクは救急車で病院に運ばれる。すぐに緊急手術だ。全身に麻酔をかけられ朦朧とするボクは、両親が傍にいて泣いてくれているのを感じている。
 あぁ……ボクは、この人生で母の命を救うことが出来た。家族の思い出もいっぱいだ。もう充分に満足したよ。
 いきなり、母が叫ぶ。
「マサト、お願い、私より先に死なないで!」
 ボクは、ハッとした。ボクの願いは叶ったが、その母はボクが生きることを願っている。母を悲しませないためには……そうだ、一つ方法がある。机の中に隠しているボクの砂時計を割ればいいんだ。そうすれば、少なくとも母を悲しませることはない。
ねぇ、ボクの砂時計を割って――しかし、声にはならず、闇の世界へと消えていった。

 意識が戻ると、男は「今」のマンションにいた。床には、割れた時計の砂がこぼれ散っている。あの不思議な老人は、もういない。
「ふふふ。元の絶望に戻っただけか」
 男が、皮肉な笑みを浮かべた時、インターホンが鳴った。誰が、訪ねてくるというんだ。
 男は不機嫌にドアを開ける。すると、そこには――。
「みんな……」
 家族が立っていた。前に進み出た母がポケットから何かを取り出し、男に見せる。
「マサト、私の砂時計よ。ここは、私の世界なの!」
 あぁ……この世の仕組みはわからないが、男はそれでもいいと思う。そう思ったら、男の顔から、涙と希望がいっぱい溢れ出てきた。
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