『風の中で』
 第二次世界大戦の真っ只中、一九四四年。オーストラリアの内陸部に位置する、この村の近くには、いくつかの捕虜収容所があった。
 この村外れの一軒家に住む老婆クロエは、ベッドの中で木戸を叩く風の音に目が覚めた。
「こんな遅くに、誰かいるのかい?」
 扉を開けると、黒い塊が倒れ込んでくる。
 クロエは思い出した。昼間、村を巡回していた馴染みの警備兵ロイが言っていたことを。
「収容所から日本兵が脱走したんだ」
「物騒なこった」
 クロエは、そう答えていた。
 日本語だろう、男が何かを必死に訴えている。騒々しい物音を聞きつけて、今年二十歳になる孫娘のエマが二階から駆け降りてきた。
「まあ、大変!」
 男は身体のあちこちを怪我している。顔も痩せこけ、栄養状態が極めて悪い。
「すぐに、警備兵のロイに引き渡そう」
「彼の身体が回復するまで、待って。それからだって、遅くはないわ」
 男を前に、老婆と孫娘の意見は真っ向から対立した。それでもエマはクロエの返事を待たず、男を二階の部屋に連れて行く。そして、自分のベッドに寝かせ、親身に介抱を始めた。
「一度言い出すと聞かない娘(こ)なんだから……誰に似たんだろうね? 私か――」
 クロエは苦笑し、いざとなったらコレがある、と戸棚から古びた猟銃を取り出した。

 三日経って男の頬に赤みが戻ってきた。彼はベッドの上で「スギモト。二五歳」と名乗り、たどたどしい英語でエマに礼を述べた。
「自分はガダルカナル島で米軍に捕らえられ、ここの収容所に連れてこられました。あなたたちに、これ以上、迷惑はかけられない」
「ここを出て、どうするの? すぐに警備兵に捕まるわ」
「日本人として、生きて祖国に帰ることは恥です。私が脱走したのは、逃げるためではなく、自分の死に場所を探すためでした」
 
 夜中、エマが起きると、ベッドに彼の姿がなかった。眠っているクロエを起こさないように家中を探すが、どこにもいない。納屋へ行ってみた。すると、鎌を使ってハラキリをしようとするスギモトがいた。エマは思わず体当たりをし、彼を突き飛ばす。
「日本男児として立派に死なせてくれ!」
「国を背負って死ぬなんて馬鹿げてる。私は、あなたが死ぬために助けたんじゃないわ!」
 エマは熱い唇を、スギモトの唇に押しつけた。口を塞がれた彼は、肩を震わせて嗚咽を漏らす。そんなに死にたいのか。エマの中に怒りにも似た激情が走った。藁の上で絡みあい、エマは我を忘れて女になる。
 こうして、異国の二人はひとつになった。
「生きていいのか?」
 男がエマの目を見て、問いかける。エマは、頷いた。
「お願い。ここから、私も連れ出して……」
 両親を早くに亡くし、祖母との田舎暮らしは、若いエマにとって退屈な牢獄だったのだ。
 
 山を越える手前まで逃げて、夜が明ける。しかし、二人は追いかけて来るジープを見た。
「あれは、警備兵ロイの車よ。隣にお婆ちゃんも乗っているわ」
 辺りを見回すが、身を隠す場所はない。
「動くな。撃つぞ!」
 ジープが近くに停まり、ロイが拳銃を構えて降りてきた。クロエも後に続いて男に叫ぶ。
「エマを攫っていくなんて、この恩知らずが」
「お婆ちゃん、違う! 私は、この人と……」
 ロイが日本兵をその場で跪かせ、頭に銃口を突きつけた。
「脱走した上に、村の娘を誘拐するなんて許せん。今すぐ、オレが銃殺刑にしてやる」
 風の音がゴウと鳴り、一発の銃声が山々に轟いた。火を噴いたのは、老婆の古びた猟銃だった。ロイが倒れる。
「戦争は、いつまでも続かない。お行き……」
 クロエは、若い二人が山の向こうに消えるまで、風の中でひとり佇んでいた。
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