江戸半ば。
向島の長屋に住む浮見亭夢鏡(うきみてい・むきょう)は、絵を描くのを生業にしていたが、三十二歳にもなるのに、全くうだつが上がらない。
質屋通いの明け暮れで、ある時、顔馴染みになったその店の次男坊から声をかけられた。
「これ、夢鏡さんが描いたのかい?」
彼が手にしていたのは、以前に質草を包んで持って行った際の反故紙だった。
「あ……」
それには、煙管や鍋、行燈などを奇妙な妖怪に見立てて描いた“失敗作”が、いくつも散らばっている。
「お恥ずかしい」
夢鏡は、頭を掻いた。
「いや。こんな絵を探していたんですよ」
二十歳そこそこの若者にニッコリ微笑みかけられて、夢鏡は絵師としての扉を開くことになった。
「成観寺(じょうがんじ)に人魂が出るから、夢鏡さん、ちょっと拝みに行かないか」
次男坊は「長砂壱六(ながすな・いちろく)」という名前で売り出し中の戯作者だった。家業が質屋であることからの筆名なのだろう。
「いま、草案を練っている作品があるんだけど、その挿絵を描くつもりはない?」
あの日、壱六の誘い言葉に、夢鏡は思わず頷いていた。
今日、これが初仕事とあれば、小太りで出不精の夢鏡でも、二つ返事で足を運ばざるを得ない。
成観寺は向島の田圃の中にある、古刹というよりは、うらぶれた荒れ寺だ。ふたりは、少し傾いだ門をくぐって境内に入った。
「和尚さん、また、来ましたよ」
壱六が、本堂に向かって声をかける。
餅菓子を頬張ったまま、和尚が顔をのぞかせた。
「他所へ行かずに、ウチの人魂見物だなんて、あんたも若いのに物好きだねぇ」
住み込みの小坊主が、暮れ六つの鐘を撞いた。
庭石の陰や、草藪の根元から闇が立ち現れていく。まさに、逢魔時(あうまどき)だ。
ふたりは、庫裏に隠れて庭の奥を覗き込む。
「夢鏡さん……見て」
壱六が顎を向けた先に、白っぽい煙のような滲みが浮き出てきた。
「あれが?」
夢鏡は、空中に薄ぼんやりと漂い始めた靄を目にした。
慌てて懐から紙と筆を取り出し、しっかり模写しようとするが、とんと形が定まらず、掴みどころがない。
何とも、もどかしい感じがした。
「怖くもなけりゃ、面白くもない。やっぱり、つまらん!」
ふたりの背後で、いつの間に来ていたのか、和尚が嘆いた。
「人魂なら人魂らしく、おどろおどろでなきゃ、見世物にならんぞ」
言葉を吐き捨て、和尚が去った後、壱六が夢鏡にそっと耳打ちした。
「成観寺の人魂は怖くないから、いつも和尚に怒られている……この噂は、本当だったね」
夢鏡が見ると、確かに説教をくらって肩身を狭くしているような、もやもやぶりである。
「でも、何か伝えたいことがあるから、ああやって、成仏できずに浮かんでいる訳で……」
夢鏡は人魂の靄に近づいて行き、筆と紙を差し出した。
「ほら、言いたいことがあるんだろ?」
白っぽい霊気に包まれ、夢鏡が何かに憑かれたようになって、その手が勝手に動き出す。
その描かれた「図」に従って、次の日、ふたりは人魂が生前に住んでいた長屋を探し当てた。
大家が立ち会い、床下を調べてみる。そこに、大きな甕が隠してあった。
壱六がその蓋を取ると、中からは、お金がザクザク……。
翌月、その時の事の顛末を、壱六は黄表紙『人魂草子』として世に発表する。
床下から出てきたお金が最も安い「一文銭」ばかりだったので、強欲な和尚から「やっぱり、つまらん!」と説教されて、人魂は切なげにしょげている――こんな挿絵を描いたのは、もちろん、夢鏡であった。