『崖で』
 その若い男は海を見おろす崖に立ち、次の獲物を待っていた。すこし疲れた顔をして。

 灰色の雲が空を覆い尽くしている。身を切るような風が吹きつけ、男の外套を揺らす。
 男は、時々、考える。こんな暮らしを始めて、どのくらい経つだろう。波と雲の単調な動きを、ただ眺めて、獲物を待ち続ける。

 来たのか。
 だが、男はすぐに違うとわかった。崖の道を通りかかったのは、暗い紺色の服を着た商人らしい男だった。荷物を負わせたロバを連れている。男は、ひとつ息を吐いた。山刀を抜き、商人を襲う。
 叫び声と血の匂い、そして刀が肉を斬る感触を、男は、いつも同時に感じている。
 男には不思議だった。彼らは、何に対して叫んでいるのだろう。突然、出くわした盗賊か、斬りつけられた痛みか、予期せぬ運命か。
 この寒さで、商人はたくさん着込んでいるのだろう。斬りつけても、なかなか死なない。最後には心臓を突き刺し、ようやく絶命した。
 いつものように死体を海へ放り込む。ロバは、怯えて遠くまで逃げていた。男はそれを追い、宥めながら、くつわを取り、崖を少し登ったところの住処へ、荷物ごと連れ帰る。

 男は、小屋の裏にロバを繋ぎ、荷物を部屋に運び込んだ。
錆だらけの古いランプを灯す。その光を見つめ、髪をかきむしり、鏡を覗き込んだ。これは、ここに住み始めた頃、若い夫婦連れから奪ったものだ。夫の方を先に斬りつけ、海へ放り投げた。女は、泣いて命乞いをした。そのべそべそした声が気に入らず、生きたまま、海へ蹴り入れた。荷物は、婚礼の道具だろうか、華やかなものばかりだったが、街で売っても大した額にはならなかった。
 街にも、長い間、行っていない。

 ひび割れた古い鏡に、自分が映る。
 そこに見たのは、やり直したいと何度となく願い、そして、今の自分の運命を受け入れることができない若い男の疲れた顔だった。

 次の日も、男はまた崖に立った。重苦しい濃い灰色の雲が、空に垂れ込めている。
 前に、太陽を見たのはいつだっただろう。

 男は舌打ちをした。黒い法衣の修道僧が、荷物を胸元に抱えて通りかかる。
 来たか……。
 男は、この瞬間、いつも迷う。ためらう。
 俺はどうしたいのだ。終わらせたいのか。
 男は無意識に刀を抜いた。鞘が岩にぶつかり、音を立てる。修道僧が男に気づいた。男は腹をくくり、刃先を僧に向ける。
「満足か」
 僧は十字を切りながら、後ずさる。何度も見せられたその仕草に、一瞬で、男の血が怒りに沸き立った。次に何が起こるのか、男には、わかり過ぎるほど、わかっている。
「あなたの罪が赦されますように」
 男の上ずった声と修道僧の低い声が唱和した。もう何度、この、人か何かわからないモノを殺しただろう。
もし、こいつを生かして道を通せば、この運命は断ち切れるのか。だが、男の迷いを知ったかのように僧の口元に笑みが浮かぶ。それが男の血を更に熱くした。男は、体ごとぶつかり、山刀が僧を貫いた。

 修道僧を最初に殺したのは、いつだったか。
 赦しを祈ったくせに、なぜ、こんな報いを俺に与え続けるのか。僅かな日の塊が海に沈むのを男は見ていた。
悪魔のいたずらか、僧の呪いか。男は、時の輪に閉じ込められ、もう何十年も歳を取らず、この崖で同じ修道僧を殺し続けている。
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