『空飛ぶタクシー』
 その夜、リリィの店は「空飛ぶタクシー」の話題で盛り上がっていた。
「林さん、凄いじゃない。詳しく聞かせてよ」
 リリィは客のほうに身を寄せる。
「火曜の晩に流しのタクシーを捕まえたらさ、運転手が飛びますか? と聞いてきたんだ」
「で、飛んだの?」
「もちろん、あっという間だったぞ」
 今年に入ってから、空飛ぶタクシーの都市伝説が全国で拡がっていた。
 神出鬼没の、そのタクシーに乗ると運転手が「お客さん、飛びますか?」と聞いてきて、それに応じると一瞬で目的地に到着するという。
そればかりか、乗車すると願い事が叶うらしく、別名「幸運タクシー」とも呼ばれている。実際、宝くじに当たったとか病気が治ったとか、まことしやかな噂が流れていた。
「それで、林さんのお願いは叶ったの?」
「ああ。びっくりしたけど、長年の夢がね。今日は、そのお祝いにドンペリを開けよう」
「きゃぁー、うれしい」
 リリィは、剃り跡が青々しい頬を赤らめた。
「オレの願い事が何か、聞かないのかい?」
「話したいなら聞くけど、こっちから催促するのは野暮なのよ。レディのたしなみだわ」
 シャンパンのボトルを持ち上げると、レースの袖から見事な三角筋のかたまりが覗いた。
「たしなみか。外見からは想像できないね」
「何ですって。いいわよ、アタシだって空飛ぶタクシーに乗って、本当の女になるから」
「大丈夫。今のままでも立派なレディだよ」
 長い付き合いになるその客は、シャンパングラスを傾けながら微笑んだ。

 店の明かりを消して鍵を閉め、リリィが外に出ると深夜二時を回っていた。
(茜町のビル街で乗ったって言ってたわね)
 林の言葉を思い出し、リリィは隣の街へとハイヒールの音を響かせる。そこへ、反対車線からグレーのタクシーが近づいて来た。
(あら、グレーのボディって当りじゃない)
 リリィは手を挙げ、タクシーに乗り込んだ。
「おねえさん、お仕事帰りですか?」
 運転手がミラー越しに声をかけてくる。
つけまつ毛に真紅の口紅、シルバーフォックスのロングコートをまとったリリィは、水商売の女にしか見えない。
「ええ。鱗町まで」
「わかりました。ところで、飛びますか?」
 来た!
 こんなに早く巡って来るなんて。
 リリィは、二つ返事で応じた。
「シートベルトを、しっかり締めてください。揺れるので手すりにつかまった方がいいです。それから、目もつぶっておいてください」
 言われた通りにして、ぎゅっと目を閉じる。
しばらくして車が動き出した。いよいよだ。
(飛んだら、すぐに願い事を念じなきゃ)
 女の体が欲しい、正真正銘の女になれますように……心の中で呟いた、その瞬間だった。
「おい、金を出せ」
 ハッとして目を開けると、運転手が黒覆面を被ってナイフを突きつけてきた。
「ふざけるな、この野郎!」
 反射的に野太い声を張り上げてナイフをはねのけると、後はもう夢中だった。
気がつけば空は白み、リリィは警察の取調べ室にいた。
 空飛ぶタクシーを騙った強盗だったのだ。

 女の体どころか、揉み合った時にスネにひどい痣ができてしまった。
もっとも、犯人はリリィに叩きのめされて肋骨にヒビが入っていたと、刑事が苦笑いしていたが。
 男の子として過ごした少年時代、無理やり通わされた柔道のおかげで命拾いできたのだ。
 これが本当の女だったら……。
リリィは、ぞっとした。いまの体で生きていけばいい。
いつか本物の空飛ぶタクシーに乗ることができたら、ありきたりだけど「無病息災」を願おう。
 すれ違う若い警官たちに流し目を送りながら、リリィは夜明けの警察署をあとにした。

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