『春の良き日』
さつき
「毎日毎晩、なんて退屈なんでしょうね?」
私は、並んで座る夫と窓の外を見ていた。
「もっと身軽に散歩でも出来ればいいのに。
ガラス窓越しの景色は、もう見飽きたわ」
 もうすぐ春本番。
春の宵は一刻が値千金と言うけれど、体感してみないと解らない。
「私たちはまるで籠の鳥。楽しみは晩酌だけだわ。ねぇ、あなた。この食後酒、甘すぎると思わない? もう少し辛口がいいわよね」
「……」。夫は前を向いて黙ったままだ。
また老いの繰り言が始まった、触らぬ妻に祟りなし、とでも思っているのだろう。
「おまけに、おつまみは乾き物だけなのよ。全く気が利かないんだから、あの嫁ときたら」
 私はため息を吐く。
 夫と私は、本来なら今も栄華を極めているはずの身分だ。屋敷には幾人もの執事や侍女、料理番や庭師がいる。お抱えの音楽家たちが優雅な調べを奏でる中、春の良き日には宴を開く……。
 まさか立派な屋敷が取り壊され、広大な敷地が切り売りされた挙句に、こんな小さな部屋に閉じ込められるなんて……。
「あなたと結婚した頃はまだ良かったわねぇ。一年に一度、この季節には懐かしい顔ぶれで集まることが出来たもの」
 幼かった子供たちも大勢に囲まれて、春の宴を楽しんでいたのを思い出す。それなのにいつの間にか皆と会えなくなってしまった。
 取り残されたのは、夫と私の二人きり!
「寂しいわ。あなたもそう思うでしょ?」
「……」。夫は遠い目をした。
「皆、嫁に遠慮して来てくれないのかしら。そりゃ彼女にしてみれば準備も大変だろうし、大勢で座るほど広いリビングでもないけれど」
「……」
「ねぇ、あなたからも頼んでみてよ」
「……」
 夫は無言のままだ。
「男は黙って酒を飲むなんて、もう古いのよ」
 宵闇が深くなるにつれて、窓に映る灯りが眩しく感じられる。齢を重ねた身には、昔のほのかな灯りが懐かしい。

 桜の開花も近付いた暖かな日。
 珍しく気が利いた嫁がガラス窓を上げた。
「わぁ、いいお天気! あなた、散歩日和よ」
「あぁ」。心なしか夫の顔も綻んでいる。
「でも、この装いじゃない方がいいかしら?」
 嫁が微笑む。
身支度を整える手伝いをしてくれるようだ。いつになく優しい手つきで、私たちの身体や顔を拭いてくれている。
 あぁ、今日が本当の春の良き日かも……。
 そんな期待が胸をよぎった、そのとき!
 なんと、嫁が布袋を頭から被せてきたのだ。
「まだ早いわ!」
 私は大きな声で叫ぶ。
 けれども嫁の手は容赦ない。あろうことか袋の口紐まで締めている。
 次は隣の夫の番。
「あなた! 今度こそちゃんと頼んでよ」
 くぐもった私の声は、夫に届かないようだ。
 夫はまた全てを受け入れるつもりなのか、モゴモゴしたあと、静かになった。

 遠のく意識の中で、私は三歳の桃ちゃんの寂し気な声を聞いた。
「ママ。どうして、お雛様片付けちゃうの?」
「今日はお掃除日和だし、お雛様は雛祭りが終わったら片付けるものなのよ。桃ちゃんがお嫁に行けなくなると困るしね」
 気が利かない嫁も、迷信は信じるらしい。
「このお内裏様は、見れば見るほど包容力がありそうなお顔ね。桃ちゃんもこんな素敵な人を見つけてね。ほんと似合いの夫婦雛……」
 やれやれ……全く解ってないわねぇ、この嫁ときたら。包容力と無関心は紙一重なのよ。夫は来年まで私の繰り言を聞かずに済むから、内心ホッとしているはずだわ。
「迷ったけれど、実家の七段飾りをそのまま持ってこなくて良かった。二体だけのお雛様だから片付けが楽だもの」
 嫁は、タンスの上から夫と私が入っているガラスケースを下ろす。黒い布で覆ってから箱に入れ、クローゼットの隅に仕舞った。
 辺りは、すっかり暗闇だ。
「またね、桃ちゃん……」
  私は眠りについた。

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