『心臓破りの坂の上』
いぶみ
 私は、心臓破りと揶揄されるほど急な坂を、ソロリソロリと車で登っている。悩み事がある度に、一人ここを訪れてきた。
 五年前、就職したての頃は、大勢で集まるのが好きだった。美味しいお店に詳しくて、そこそこモテて、沢山の友人に囲まれていたのを思い出す。
 坂の上にある小さな公園に着くと、桜がちょうど見頃だった。巨大な桜の木の下に車を停め、フロントガラス越しに、花曇りの空をぼんやり見上げる。
 突然、ドゥッと地鳴りのような音で風が吹き、桜吹雪で視界が埋め尽くされる。フロントガラスの上に、花びらが何層にもなった。
 その時、ガチャリと運転席のドアが開く。
「凄ぇ偶然。こんな所で一人、何やってんの?」
 息が止まる。
 三年前に別れた、隼人だ。四年も付き合って、浮気しやがった。
 彼は、助手席へ移れと私に手で示し、当然の如く運転席に乗り込んでくる。相変わらず、ファッション雑誌から抜けでて来たような格好だ。
「昔、この桜の木の下で、別れ話したよな」
 彼は、そう言うと勝手に車を動かし始める。
「何かまた、悩んでんだろ? 聞いてやるよ」
 そうだ。私は、彼の助手席で話すのが好きで、彼はいつも一緒に悩んでくれた。私が言ったどんな些細なことも、覚えているのだ。私の会社の人間関係にも、詳しかった。
「井上部長が独立して、別会社を起こすの」
「あの弱気部長が? んで、付いてくの?」
 運転する彼の腕に、アクセサリーがジャラジャラ付いている。しかし、左の指に指輪はしない。独身だからじゃなく、モテたいから。
「努力して変わったよ。もう弱気じゃない」
 部長を庇う私を、彼がチラッと横目でみる。
「なら、何を悩む? まだ俺に未練あるとか?」
 私は突然思い出す。
 あの時、呼び出しておいて、いつまでも現れない彼をここで待ち続けたことを。辛く苦しい時間が流れたことを。
 車は、下り坂をドンドン加速していく。
「お前はお人好しだ。だから心配なんだよ」
 彼が更にアクセルを踏み込むと、車体は弾み、シートベルトが体に食い込む。仕方がないのは分かっている。
 けれど、巻き戻せたら。
「今日みたいな日は、家に居て!! お願い!!」
 タイヤの軋む音に負けじと、彼は怒鳴る。
「今さら戻れない!! もう行けよ!!」
 また、ドゥッと風が吹き、桜吹雪で何も見えなくなる。
 気がつくと、車はさっきの桜の木の下に停まっていた。運転席には誰もおらず、花びらだけが残されている。
 三年前、別れ話をした翌日は、今日と同じ花曇りで視界が悪かった。
 彼は、もう一度謝るつもりで私を呼びだし、来る途中に車で事故死した。それから、私は悩み事があるとここを訪れる。
 彼は、全て分かっていたのだろう。私が、背中を押して欲しかったのだと。

 心臓破りの坂を、今度はソロリソロリと下る。
 待ち合わせの駅前は、もう薄暗く底冷えしていた。あの、くたびれたスーツ姿の中年男性が、井上部長だ。根気よく私を待つ姿に、人柄が滲んでいる。
 彼は緊張した面持ちで、私の車に乗り込む。
「ごめんなさい。桜見てたら遅くなって」
「いいよ。僕なんて、付いて来てと言える迄に五年も掛かった。返事は急かさないさ」
「よくよく考えたんです。私、独立後の部長の人生に、付いていきます」
 彼は、堪えきれずにボロボロと男泣きした。
「独立は口実だよ。君に相応しくなるきっかけが欲しかった。変われたら、プロポーズしよう。君が入社した時から、決めてたんだよ」
 私も、心臓破りの坂に登る前から、分かっていた。
 この人は地味でも、左の薬指に指輪をし、浮気と無縁の人生を歩くだろう。だから、これで良いのだと、自分に言い聞かせた。
 ふと、サイドミラーを見る。
 坂の上で舞っていた、桜の花びらが前髪に一枚付いている。
「もう行けよ!!」
 隼人の声が聞こえる。
 私は、その花びらを心の奥へと大事にしまった。

clipimg